Marco の本棚

~紙の削減~ 著作権切れの名著

菊池寛『頸縊り上人』

頸縊り上人

1922年 ( 大正11 ) 7月「改造」

 

 小原の光明院に、寂眞法師と云ふ上人が住んでゐた。何某の大納言の叔父君に當つてゐる上、學問も秀れ、戒行も拙たなくなかつたから、あつぱれ上人やとて、歸服し奉る僧俗も、數少くはなかつた。

 

 その頃の習ひとて、上人も忍んで通つて居る(ちご)が、五條あたりに在るつた。眉目いと美しかつたが、志はさらに深かつた。一年、卯月の末つかた、ほとゝぎすが、鳴きしきる夕暮、上人は輿を、卯の花ほのじろうにほへる垣根のほとりに寄せて、久しく打ち絶えたる兒を訪ふたことがあつた。

 

 兒は上人の顔を見ると「夏衣(なつごろも)」と云つたまゝ、面を伏せて、とみには物も云はなかつた。上人も、鼻じろみて、おはしたが、そのまゝ席を立つて、歸らうとした。

 

 兒は、あわてゝ上人を、止め、

「などて物ものたまはで、歸り給ふぞ、(つれ)なし。」

と恨んだ。

 

 上人は兒の顔をのぞしておはしたが、しばしありて、

(つれ)なしとは、わが恨むべき言の葉ぞ。稀に問ひたりわれに、夏衣と(のたま)ひたる、必定「止めても止まらぬ春もあるものを云はぬに來る夏衣かな」の心なるべし。かくばかり、うとんでおはする方に、などてしも止るべき。」と云つた。

 

 兒は、非常にかなしがつて答へた。

「存じも寄らぬことを承るものかな。「夏衣われは一重に思へども人の心に裏やあるらむ」と申す本歌の心にて、久しく打ち絶えたるを恨み申せしなり。」

と云つた。

 

 上人み氣色斜ならず、その後は志もいやまさりて、通うてゐた。

 が、生者必滅老少不定の例を、目のあたりに見するやうに、この兒が今年の九月の初に急に死んでしまつた。病氣はひどい瘧疾(わらは)であつた。典薬頭大江實房にも、私のつて(ヽヽ)がゐつたので、訖て貰うたし、もろもろの加持祈祷も修し、おしまひには上人自身、肝膽を碎き、諸天諸尊を駭し、責めに責めて祈られたが、露ばかりも、效顕がなくて、九月五日と云ふに、ついに空しくなつてしまつたのである。

 

 上人の嘆きは、世の常ではなかつた。宛ら、掌中の玉の見るみる露と消え、翳しの花の(たちま)ち、嵐に吹き折られた思がして、心地生きぬべうもなかつた。

 

 上人は、今年六十五であつた。あまりに生き永らへばこそ、かゝる悲しき思もするのだ。いとしきものを、先き立て、命永らへて何かはせんと思つた。法師としても、僧正(そうじやう)にこそなつてはゐないが、世の覚え、人の聞えも、限なくいみじき身であるから、もうこの上の望みはない。いとしきものゝ先立ちしこそ、早く寂光浄土へ往生せよと如来の結縁したまふなるべしと思つた。

 

 上人は、さう考へて来ると、悲しみの心の(うち)にも、ほのぼのと光明が、射して来るやうな気がして、如来の来迎とはかゝることをや云ふなるべしとさへ思つた。

 

 上人は、いろいろ考へた末、三七にちの間無言して、結願の日に、首を縊りて、往生せんと思ひ企てた。最初、上人はそれを、自分ひとりで、わきまへて行はんと思つたが、かくては、心変はりすることあるべし。一定往生せんには、人にもきこえて、おのが心のいましめともせんと思つたから、ある夜ひそかに小原の僧正なる顯眞上人を、訪ひまゐらせて、志のほどを打ちかたらつた。

 

 僧正は、初はいと心得ぬ気に、聞いておはしたが、上人の志の動しがたいのを見ると、あまたゝび感嘆して、

「いみじくも思ひ立たれつるかな。さばかり、思ひ立たせたもふを、止めんも心なければ思のまゝに執り行はせたまへ。極楽に往生し給はんこと、ゆめ疑はじ」と、励ましてくれた。

 

 上人は、心の裡が、秋の風のやうに、澄みわたる心地がした。煩悩の雲名残なく晴れ、雑念の嵐跡を絶ちて、往生の期の一日も早いことを待つて居た。

 

 顯眞僧正は、上人の企てを誰人にも云ふつもりではなかつたが、古しへにも後世にも、ためし稀なほど、有難く尊いことだと思ふに付けても、自分一人の心裡に、隠してゐることが、勿體ないやうに思はれ、往生の一事があつた後にあはれさる有難き生佛ならば、姿をも拝み奉るべかりしになど、諸人の怨みつらんほども考へられたので、おのづと噂がたつやうにもてなして寺中の人達に知らしてしまつたのである。

 

 寺中の兒、法師達の(おどろ)き、一方でなかつた。観音菩薩の生身のお姿が、現はれたか何かのやうに、打ちどよもして口々にあがめ奉らはぬはなかつた。

 

 上人は、寺中のどよめきを外に、四五日は行ひ澄ましてゐたが、(とき)を参らせる兒などの上人に對する容子が、とみに革まつて、宛ら本尊の大日如来の前にでも、出たやうに、いみじくをろがみ奉つたから、上人はかたはらいたくは思つたが、さてわるい氣持がするほどでもなかつた。ひとり、給仕に出る兒ぎかりではない。廊下で行き交ふ役僧や、青法師さてはやんごとなき上人までが、あはれ末代にも、逢ひがたき人にて、おはすかな。いみじく思し立たれたりなど、向ふざまに誉め奉つた。初は、いと思伏せに思はれたが、だんだん人が誉めて呉れるのが、當り前のやうに考へるやうになつて居た。

 

 が、噂は、寺内丈に止まつて居なかつた。一人二人、参詣の人が聞き知ると、忽ち霜月の野を焼く火のやうに、忽ち都の内にひろがつてしまつた。

「小原には、目のあたりに、極楽に往生し給ふと云ふめでたき上人おはします。行きて結縁し奉らばや。」

と、都の人々が、老いも若きも、男も女も數を盡して小原へ集つて來た。小原の僧正も、沸縁を結ぶには、叉となき時と思つたので、一七日の間、往生講を催し、都の名僧を數多請じて、別時念沸を始めた。その騒ぎが、光明院始つて、空前絶後と云ふほど、いみじいものだつた。

 

 都より小原まで、人垣を作りて詣で來る人、日に千萬と云ふ數を知らず、検非違使の廳 (庁) より、一人の長に數多の放免を附けて、非違を(いまし)めるほどになつてしまつた。

 

 上人は自分の投げた(いし)が、あまりに大きい波紋を描いたので、少し空恐しう思はれたが諸人にかくまで、をろがまれることの、こよなううれしかりければ、仔細に行ひ澄して、日に五度と、數を定めて、出でゝ拝まれるのであつた。が、同法の上人の中には、出でゝ拝まれるなどと云ふことは、少しやり過ぎてゐる。いさゝか、興行めきて居て、穏當でないと云ふ非難があつたが、さばかりにと慕ひまつりて、遥々と來る人々を、むげに返しぬる事やあるとて、續けて拝まれてゐるのであつた。

 

 上人は、初めて往生の心が、ほがらかに澄み渡つて、障害の雲の立ちのぼるべき、山の端さへないやうだつたが、僧俗男女に、あがめ奉らるゝまゝに、名聞の心は、はしなくも萌した。かくばかり、人々にあがめられて、世を過さば、いかばかり樂しくうれしかるらんと、思ふにつけても、結願の日の近づくことが、少し物憂く思はれるやうになつた。

 

 折しも、九月の半で、毎夜のやうに、月が澄み渡つた。これまでは、いつでも見える月 今年見ないでも、來年は見られる月だと思つて、そんなに心にも、止めて見なかつたが、一七日の後には、死ぬるべき身に、これや今生の月の名残と思へば、白銀の光いとか冴えかへりて、あはれいやまさり、彌陀の浄土の無量光の光と云へども、これにはよも過ぎずと思ふにつけても、あわたゝしくも去る浮世の名残が、だんだん悲しまれるやうになつて來た。どうせ、老先のない身體だから、自分で往生を急ぐにも及ばなかつたのだと思つた。

 

 その上、一番いけないことは、兒が死んだのを悲しむ心が、だんだん薄くなつてゐることだつた。初めは、今日にも往生して、なつかしき面影を見むと思つて居たが、そんな心も、だんだん無くなつた。その上、兒が自分の言葉にも背き、念沸なども、唱へた事のないのを思ひ合はすと、必定極樂にて、廻り合はんとも定つてゐない、そんなことを考へると、いよいよ往生するのが、心細くなつて來た。

 が、それにも拘はらず、一日一日結願の日は、近づいて來る。そして、一日一日参詣の老若男女の數が殖えて來る。

「はや四日にて、ありがたき往生の姿を見奉らんぞ。あはれ、紫の雲や虚空にたなびき渡らむ。樂の音や雲間にひゞかなむ。」

 などゝ、上人の耳ちかく呟くものさへあつた。上人は、無言の業を修しながらも、いよいよ堪らなくなつて來た。などてかくは、人々のかしましくひしめき合ふならむ。自分一人、往生の素懐を遂げようとするのに、何も他人が、こんなにざわけかなくつてもいゝではないか。これと云ふのも、顯眞座主が、自分のそつと相談したことを、公けに洩らされたのが、わるいのだと、今は心の裡でそつと、恨み奉るやうになつてゐた。

 

 群衆は、日毎日毎に増して來て、お天氣のよい日などには、坊の周圍に、蟻の甘きに付くやうに、むらがつてゐた。中には、物賣る翁さへ交つてゐる。その人達の擧ぐる念佛の聲や賛嘆の聲が、上人の耳におどろおどろしく聞えて來る。

 

 結願の二日前には、これまでにない群衆だつた。そのうちに、いとうつくしき女車二つまで、交つてゐた。何某の内親王のあまりに、尊くや思はれけむ、ひそかにまゐりたまふそと聞えて、道俗どもの、のゝしり騒ぐ聲、すまびすしく聞えて來た。

 

 上人は、願を起した始には、心もほがらかにおはして、自分自身撥心のことであるから、いさみはげみて、おはせしが、世の人に聞えて、道俗男女の、打ちさわぐまゝに、今はこれらの人々に、追ひひやられて、無理矢理に首を縊られるやうに、考へられて來て、心が鉛のやうに重くなってゐるのである。

 

 結願の日が、二日三日と迫るまゝに、上人は、ますます悩みもだへて來た。兒に對する追憶の心などは、自分の悩のために、もうとつくに忘れてしまつた。とにかく、今しばし生き永らへて、何にでもならう。何か生き永らへる方法はないかしらんと考へた。天變地妖などの出でよかし、畿内中國などに、いみじき謀反人の起れよかし。都に大火事が起らないかしらん。この坊も、潰ぶれるやうな大地震もふるへかし。そんな風な大事件に、取りまぎれて、世間の人々が自分のことを、忘れて呉れゝばいゝのだがと思つたが、何うして上人の望みは叶ひさうもなかつた。世は太平が、打ちて、續いて、時津風枝も鳴らさず、諫鼓苔深しと云つた有様で、殊に今年は稀なる豐年である。都の鬼の出る噂もなければ、小さい箒星さへ出ない。ただ、上人がふと考へついたことは、中宮の御懐胎だと云ふ一事である。ついこの間、それに就いて、叡山や三井寺などでも、安産のお祈りがあつたやうである。あはれ、男皇子(みこ)などの一日もはやく、産まれませよかし。そのおよろこびや、そのお祝ひで、きつて勅諚に依つて、今しばらく往生を、延ばせよと云ふことになるに違ない。さうなれば、堂々と公けに、晴れがましく生き永らへることが出來る。道俗の尊仰を、一身に受けながら、生き永らへることが出來る。どうか、さうなつて欲しい。さう考へると、往生せんと念沸する心は、無くなつて、たゞ一心不亂に、中宮の御安産を祈つてゐた。がいかばかり法力のおはしませずとて、まだ身ごもりて六月にならぬ中宮の、などて四日五日の裡に、皇子産みまさむいと笑止であつたが、そんなことに氣が付かぬほど、上人は心苦しくなつてゐたのである。

 

 その裡に、結願の日の前日になつてしまつた。上人は、最初自分が死なうと思つて居た頃は、死ぬのがそんなに恐くなかつたが、今は何萬何千と云ふ人の力が加つて、自分の肩や腰を押しながら、ひたぶるに「死ねよ。死ねよ」と、催促されて見ると、死ぬことが恐くなつて、目が眩き氣が遠くなるやうであつた。そんなに集つて來る人の中には上人の弟子もあり、俗縁の人もあつた。その中に、一人位は、もう少し生き永らへてこの世の名残を惜しめと云つて呉れる人が、ありさうに思つてゐたが、みんな眞面目くさつて、よにも有難氣に上人を、禮拝する丈で、上人に別れるのが悲しいからしばし止まれと云つて呉れる者はなかつた。上人は、げにも頼みがたきは、人の心なりと、ひそかにかこちおはせども、無言の行を修したまへば、それとなく自分の心持を、口に出して云ふことさへ出來なかつた。

 

 ただ、右大臣の頼文卿のみは、最後の命の綱と思つて頼んで居た。これは、上人の姉の子である上に、幼少のときは上人に就いて、學文をした上、人となりたまひし後も、師檀の契が深かつたから、この君こそ、きつと、自分の死ぬのを止めて呉れるに違ない。さいつ頃より、熊野へ詣うでたまへるを、一日千秋の思で、歸洛を待つて居られたが、昨日歸洛あつて、今日は小原に來ると云ふことづてがあつたから、上人はこれを彌陀の來迎よりも、ありがたく心を躍らせて持つてゐた。

 

 午の刻ばかりに、いと美しく装ぞくして、お見おになつた。上人は、頼文卿の顔を見ると、涙が湯のやうに、ほとび出すのを、抑へることが出來なかつた。自分の涙を見ると、屹度自分の心裡を、いくらか察して呉れるに違ひないと思つて居たが、さはなくてあまたたび、禮拝された後に、

「急ぎ候かひありて、うれしくも、御最期に逢ひまつりしものかな。伯父君のおん姿のかうがうしきこと、生身の観世音もよもすぎしと覚え候ぞ。あはれかゝる貴き往生の姿をも見奉りて観念修業のたよりともせむ。」

と、いと涼しげに申されければ、上人今は盲龜の浮木に離るゝ心持して、苦しく悩しく思はれた。

 

 その裡に、いよいよ結願の日が來た。上人は、前の夜心悩ましく、睡むれなかつた。ただ、暁頃にあとまどろみけるに、坊の外に大勢の足音よと覚えて、夥しく轟き聞えり。あやしや誰やらむと、見給ひけるに、はや中門の中に込み入りぬ。庭上には、猛火烈々たる火の車を、遣り居てあつた。炎の中に、鐵の札の立てるがおぼろげに見えけるが、無間地獄の罪人とかきたり。時に、青赤黄白黑の鬼共、大床に飛び上つて、上人を引き立てんとす。上人(おどろ)き怖れて、

「こは何處へ見するぞ。年頃の戒行をあはれみて、ゆるさせ給へ」と、叫んだが、會釋もなく、搔い摑んで、火の車に(ほう)げのせ、刹那の間、空中を翔ると見て、夢さめたり。その間の苦しさ喩ふべきものもなかつた。額には、あぶら汗が玉のやうに浮かんでゐた。あはれ、死んで地獄に落ちる正しきしらせだと思ふと、上人の心も肝も、身に添はず、たゞ烈しく韻へるばかりであつた。

 

 よしなき往生の思を起したゝめに、却つて思ひがけぬ妄執に囚はれて地獄へ落ちるかと思ふと腸が掻きむしられるやうに悲しかつた。

 

 その裡に、結願の麻はシラジラと明けた。前の晩から、大雨か大嵐かになつたら、それを口實に一日でも延ばすつもりであつたが、晩秋の空なごりなく晴れて、西の山の端に、あお雲が、少したなびいてゐる丈であつた。

 

 夜が明けぬ裡から、老若男女が、廣い境内に、一杯にみちみちて、念沸の聲を擧げてゐた。その聲が、集つてゐる僧俗の耳には、いとすがすがしく聞えて、今にも極樂が、まのあたりに出現するやうに思はれたが、上人の耳には、夢で見た五色の鬼が、口々にのゝしり騒いでゐるやうにしか聞こえなかつた。

 

 殊に、上人が首を縊る筈になつてゐる榎木の周圍には、青法師どもが、群れつどひて、聲高く讀經してゐたが、その榎木が、上人には地獄に在りしと聞く、劔の樹のやうにしか見えないのであつた。

 

 亥の刻近くなると、群衆の有様は潮が、満ちて來るやうだつた。乗り捨てゝある(ながえ)の車さへ、數へがたいほどだつた。未明から來てゐる連中は、樹の陰や坊の縁などで、割籠(わりご)を開いてゐるものさへあつた。かれ(いひ)を出して喰つてゐるものさへあつた。午の刻には、群衆の數が、五萬以上に達したと役僧達が云つてゐる。坊の落ちるお布施だけでも、大變だらうと云ふので、僧正以下おほ欣びである。雲林院の菩提講のときの群衆だつて、この半分もないだらうとは、皆の一致した見方であつた。

 

 正午が過ぎると、群衆が少し待ちくたびれて、催促する聲が、所々に、起つて來た。今は、然るべしとて法師どもが上人を、促したが、上人は魂がぬけたやうに、本堂の一段高い所に座つたぎりで、返事さへもしないのであつた。

所が、(ここ)に覺正法師と云ふ同法の上人が、一人おはした。學文も、戒行も、上人と相匹敵して、何事にも並び立ちおはせしが、上人が往生の志を起してからと云ふものは、上人の噂丈が、世にかまびすしく聞えて、坊内の尊敬も一方でなく、今まで寂眞覺正と、並び呼ばれてゐたものが、一人は九天の雲よりも高く、一人は縁の下の土くづしのやうに、聞えなくなつたので、心安からず思ひて、いかにもして、寂眞の往生を防げんと、腹黒く企みておはせしが、午の刻も過ぎて、上人が捗々しくも、仕度をしないのを見ると、今こそと思つたのであらう。さりげなく云ふのには、

「これほどの義になりて、別の仔細あるまじく候へども、凡夫の心は、刹那の間に、とにかく變る習にて候へば、もし妄執も殘り、他に思召す事もあらば、仰せられよ。今は無言も詮なく候。」

 と云つた。日ごろ、快くも思はなかつた覺正法師の言葉が、上人の胸にしみわたるやうにうれしかつた。上人は、溺るゝ者が、藁を摑むやうに、その言葉にしがみ付いた。

「いしくも云ひたまひしものかな。われも思ひ立ちし時は、心も勇猛なりき。志厚かりし者の、とみに失せ候ひし時は、一日もとくとく臨終して、かゝるうき事も、聞かじばやなんと思ひしが、今は心もゆるみて、いそぎ死せばやとも覺おぬぞ」

 と、力なく云つた。それを、聞いて居た上人の弟子の一人が怒つた。この弟子は、年來、秘蔵の弟子で、在家法師であつたから、都に住んで居たが、上人の深き志を聞いて、欣びいさんで、京から來て居たが、身分がら道場では踈ぜられるので、少し不平であつたが、上人のおうした述懐を聞くと、諸人に聞えるやうに、聲高く云つた。

「ものゝ義なんどあげつらふは、定まらぬ時の事也。これほどに、のゝしり披露して、時日も定まり、結縁の人々もあつまり、往生の様をおがまんとするに、なまこざかしき、さかしう異議の出來候こと、返す返すもあるまじきことなり。御往生をさまたげんとする天魔の所為にこそ、とくとく御行水まゐらせて、いそぎたまへ。時刻延びなんが」

 

 上人も、かやうにのゝしられて、今はこれまでだと思つたのだらう。漸く行水をして、新しき法衣に換へて、さて榎木の下に、立つたが手足に顕ひ出て、なよなよとして、ふらめくので、伴の僧が肩を押し腰をいだいて、やつと榎木に近づけまゐらせたが、年は取つて居るし、木は高し、かねてしつらへてある梯子にも、上りかねたので、また腰を押しやうやう定めの枝の所まで、のぼらせた。老いさらばへたる法師の、人の手に取られ、足を押され、ふるひをのゝきつゝ、梢にあがりたまふさま、極樂往生の貴き姿はなくて、閣魔の廳の罪人の、牛頭馬頭に追ひ立てられ、刀山剱樹に追ひ上せらるゝに、異ならず、人々最初は念沸して、いと神妙に見物してありしが、あまりにあさましがりければ、念沸の聲もうすらぎ、いと興ざめてありける。上人とみに首を縊りたまはず、何か思案して、時あつりしかば、見物どよめきて、

「今更怯れたまふか」

などゝ、青侍などの、のゝしりければ、いよいよ怯えたまふと見え、縄を取る手のふるひわなゝきて、縄の首にかゝりたまはざるを見て、見物は口々にのゝしり始めたければ、あわてたまふと見えて、縄の首にかゝらざるに、足を踏みはづしければ、首はくびれず、大地の上に、地ひゞき立てゝ落ちたまふた。

 

 見物どよめきて笑ひぬ。起き上りたまふかと見えしが、打ちどころや悪かつたのだらうそのまゝ息が絶えてしまつた。

 

 見物のゝしりさわぐこと、しばらくは止まらず。

「とにも、かくにも往生はしたまひぬ。同じ死にたまふならば、などてやまともには首をくゝりたまはざる!」

 などゝ嘲り笑つた。

 

 が、群集が、嘲りの聲のやまぬ裡、西に落ちかゝつてゐた夕日が、にはかに光明をましたかと思ふと、夕焼の雲が、みな紫に輝き始めて、虚空に、そこはかとなく、妙樂がきこえて來るのだつた、すると、今まで蛙のやうに、ひしがれてゐた上人の身體から、異香が薫んじ、ほとばしつてその匂が群衆の間に、充ち満ち、極樂往生の(あかし)、今はかくれなければ、諸人嘲けりの心須ち消えて、稱名の聲、しばらくは、大地をふるはせて起りにけり。

 

 上人の臨終の不始末で、面目を失ひ、蒼くなつてゐた小原の僧正は、この奇端を見るとこよなう有難つて、衣の袖をかきつくらひながら「必定往生せんとして、悩み苦しみたまへるをなどでか、彌陀如來のあはれと思召ざらん。首をくゝらんとて、えくゝりたまはざるこそ、ありがたき臨終の相なれ。」と云つたので並居る、上人達、みな袖になみだを、ほとびらせたまふた。

 

底本 文藝春秋叢書 第一巻『肉親』

   春陽堂 菊池寛著 大正13

   p.78~p.96

 


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