Marco の本棚

~紙の削減~ 著作権切れの名著

夫に殉じた陸軍大将の妻 乃木静子

作家 角田房子

 

望まれざる結婚

明治十一年 ( 1878 ) 八月、湯地ゆちお七は陸軍中佐、歩兵第一連隊長 乃木希典まれすけと結婚した。

お七は二十歳 ( 数え年 )、希典は三十歳だった。

お七の父 定之は旧薩摩藩士だったが、武士の身分を失った不遇の人で、鹿児島 ( 市 ) のお船手ふなてと呼ばれた船頭などの住む場末に蟄居し、母の天伊子ていこも お七も内職をして貧しい暮らしをしていた。のちに定之の長男定基と三男定監さだのりが明治新政府で出世したので、親子は東京に引き取られ、その後、お七は麹町女学校に通うなど、一応の暮しをする境遇になった。

 

お七の父定之のところへ縁談を持ち込んだのは、乃木中佐の副官で当時陸軍大尉の伊瀬地好成だった。お七は乃木中佐を一度見たことがあった。伊瀬地来訪の約二カ月前、暗殺された内務卿大久保利通の国葬当日、赤坂榎坂町の湯地家の門前に、儀仗兵指揮として騎乗待機していた乃木中佐を見たのだった。道にあふれる見物人の「あれが西南役の乃木希典!」というささやきで、お七は、錦絵で見た抜刀の乃木の勇姿と、いま眼前の馬上の乃木を結びつけて眺めた。

 

しかし、このときお七が乃木に魅力を感じたなどとは、どの伝記にも出てこない。お七は南国育ちらしい快活な娘と書かれているが、そのころからどうも情緒のある女ではなかったようだ。

 

一方、乃木は錦絵に描かれたような颯爽たる青年将校ではなかった。西南役で連隊旗を西郷隆盛の軍に奪われ、自責の念から自殺をはかったが果たさず、明治天皇の優諚に救われたが、鬱屈した精神のやり場もない思いの、いわば破綻した男だった。希典は十六歳のとき、吉田松陰の師匠で希典の伯父に当たる玉木文之進の門にはいり、十八歳で長州藩兵の一人として初めて幕府軍と戦い、のち藩に帰り明倫館文学寮で読書係りをしていた。自分でも武人より文人になりたかった。それが長州閥の主流、吉田松陰閥に連なることから結局軍人になってしまうという、本人の資質を思えば不幸な運命をたどった。

 

そして軍旗事件を起こした西南役から凱旋後は酒に沈湎ちんめんし、乱酔狂態の日々を送っていた。縁談の起こりも、乃木に酒を自制させるには妻を持たせたら、という発想だった。

 

乃木はお七の写真を見て気に入らず、「写真顔の悪い娘なのだ」というとりなしで見合いをして、話はまとまった。

 

結婚式当日、乃木は定刻を五時間過ぎても式場に現れず、再三の使者に「忙しい ⵈ」とだけの返事だった。式当日の四日前、明治十一年八月二十三日は、近衛兵が反乱を起こした「竹橋事件」の日である。しかし乃木の日記を見ても、事件のために遅参とは読みとれない。そして二十七日の日記の末尾には「本日婚儀」と四文字があるだけだ。

 

当夜、乃木はお七に向かい「やかましい母がおり、心の曲がった妹もいる。それで辛抱できないと思うなら、盃せぬがよかろう」といった。

正直かもしれないが、この時となってなんとも思いやりのない言葉だ。まじめにそう考えたのなら、婚約前に人を介してでも伝えるべきであった。こう言い残した後の乃木は花嫁を見向きもせず、客を相手に痛飲し軍服のまま前後不覚に眠ってしまった。

 

結婚当夜の話ではないが、乃木は「自分は薩摩種を取りたいと思って静を貰ったのだ」と、妻を種馬扱いした言葉をはいた。乃木は馬が好きだった。「静子」とは乃木がお七に与えた名である。薩摩ではお七もいいが、江戸では放火犯八百屋お七を連想するからいけないというのが、改名の理由だった。

 

静子は静子で、結婚式当夜の乃木の言葉に対して「 ( 私は ) 薩摩の女ですもの、なあに長州の者 ( 乃木の家族 ) なんかに負けるものかと、すぐ思いつきました ⵈ」という言葉を残している。

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乃木静子

 

妻を迎えても、乃木の大酒は収まらなかった。連夜酒亭に遊び、陸軍の中でも「乃木の豪遊」と噂され、酔えば「いも掘り踊り」を踊り、とっくみあいの喧嘩をした。乃木を尊敬し、最も信頼度の高いといわれる伝記を書いた宿利重一も、「中佐 ( 乃木 ) の夫人に対する態度は淡きこと水のやう ⵈ」、「新夫婦が対座しても、優しい言葉を掛けるでもなく、用事の外には無駄な口も亦利かぬと云ふやうな良人」と書いている。

 

静子もまた、後年、姉の馬場サダ子 ( この人は自刃の日に乃木邸に居合わせた ) に、「私は嫁いでも、三年目までと云ふものは、良人がびっこであることも、それから片目であることも知らず ⵈ」と語り、しきりに笑ったという。乃木は少年時代に左眼を失明し、西南役の負傷で少し跛行するようになったと伝えられる。

 

これはずっとのち、乃木が四国、善通寺の第十一師団長のころ、東京留守宅の静子に書いた手紙の末尾に「追而手紙の上書きハ気を付ケてふねう ( ていねい ) に御書き可ㇾ被ㇾ成候」という文字が見える。伝記筆者は、脈々たる夫婦愛、妻への心遣いと解釈しているが、私にはそうは思えない。後年、詩魂を秘めた求道者のように変貌する乃木の繊細な神経に、静子のキメの荒さは、やりきれないものだったのではなかったろうか。

 

しかし乃木のような男の妻になってしまった静子は、不運な女だったと私は思う。乃木は乱酔するにせよ、突然変貌して求道者的になるにせよ、殉死するにせよ、終始彼が志したことは自己の美意識の形式化だった。彼は悲壮好みのスタイリストだった。そんな男につれ添うことは、女にとってはとんでもない迷惑だし、だいいち、ついてゆけるものではない。まず乃木には結婚などする資格はないが、どういうつもりか妻をめとった。そして写真を見た時から気に入らなかった静子を、遂に愛せなかったのではなかったか。

 

耐え忍ぶ“明治の女”

選ばれた静子は「嫁いでしまった以上は帰れぬ」と覚悟する“明治の女”だった。全く心の通わないことを夫から露骨に示されても、それに耐えることを当然と頑張る女だった。それだけの気の強さは、さすがに薩摩の生まれらしかった。また夫の心に常に沈潜する詩魂や情操などは感じられぬ鈍感さがあったから、へたに振りまわされることもなかった。

 

しかし酒に溺れる夫をいかんともし難い妻の悲しみは、身を切られるように感じていたと察しられる。哀れな若妻だった。

乃木家には乃木のいう「やかましい母」が同居しており、乃木はこの母に全く無批判に親孝行だった。静子の姑 寿子ひさこは酒好きで、酔えば陶然と〽高い山から谷底見れば瓜やなすびの花ざかり⸺と手拍子を打ってくり返し歌うような女だった。静子は盃を差され「飲めない」といって悪罵されもしたが、持ち前の気の強さから「女が酒を飲むなど、よくない」と諫めたか反撃したかで、一層状況を悪くした。寿子はまた疳癖かんぺきが強かった。希典の後頭部には傷跡のハゲがあったが、これは子供のとき寿子の怒声と共に打ち下ろされた棒による傷だった。

 

結婚後一年の明治十二年八月に長男 勝典かつすけが生れた。それまで静子は希典の妻として入籍されていなかったので、入籍届けと出生届けが一緒に出された。乃木の結婚の理由は、その自責と悔恨を、男児をもうけ立派な軍人に育て上げることで、天皇の前に償うとも想像されるのだが、それにしては、勝典誕生を喜ぶ文字は残っていない。静子は母乳が出ず、勝典は弱い子だった。

 

姑のいわゆる家風なるものは、お天道てんとう様は神様だから、きたないものを日にさらしてはならぬ、こたつを使ってはならぬ、夜は火気を禁ずというものだった。静子は日に干せないおむつを背中の素肌に負って乾かし、ふところで温めて使ったと伝える伝記もある。

 

静子の母 天伊子は内情を知って、離婚の話が内々に進んだが、易者の判断で思いとどまった。乃木は相変わらず泥酔し、家庭の不和を調停しようともしなかった。

 

こうした暗澹あんたんとした暮らしの中でも、子供だけは生まれた。明治二十四年十二月に次男 保典やすすけが生まれた。そのころ姑 寿子は、家を出て希典の妹で長谷川家に嫁した、いね子の所へ行くといい出した。乃木は驚いて、結局、静子と二人の子供を別居させた。

 

寿子は静子らの去った家に島田まげを結った美女を入れ、希典に接近させようとした。静子の兄 定監さだのりは、乃木が静子のために選んだ湯島の陋屋ろうおくが余りに非衛生的だと、三人を三田松坂町に移した。別居は一年半ほど続いたのち、人の斡旋で母子は乃木家に帰った。このとき静子は姑に向かい「子供の言葉を真に受けられては困る。子供のいうことは聞き流してもらいたい」と釘をさしている。

 

明治十九年十一月、当時少将に昇進していた乃木はドイツ留学を命じられ、二十一年六月に帰国した。一年余りのドイツ滞在だったが、乃木には異常な変化が起きた。彼はビスマルクによって統一されて間もないドイツ帝国の、陸軍の主流をなすプロイセン貴族に強い影響を受けた。ドイツ将校の端正な制服姿、威厳に満ちた身のこなしなどの外形美に傾倒した。それは明治の日本人である彼の精神主義に結びつき、乃木独特の様相を示した。

 

ドイツから帰った乃木は、渡欧前の絹の着物に角帯姿で料理屋へ通う習慣を廃し、もはや乱酔せず、起床から就寝まで軍服を脱がず、プロイセン貴族出身の軍人が制服によって名誉を顕示する態度を真似た。「 ⵈ然ルニ我国上流、高等ニアル武官ニシテ浴衣、寝衣ヲ以テ公事ヲ部下ニ談ジ ⵈⵈ 出は卑猥賤業ノ家屋ニ出入シテ憚ラザルガ如キ、共ニ礼節、徳義ヲ放棄スル者ナリ ⵈ」とは、乃木が帰国後提出した意見書の一節である。

 

乃木の激変は軍人仲間で評判になったが、静子が何らかの反応を見せたということは、どの資料にも出てこない。いかに明治の女でも、夫のこんな大変化には何か反応を示したろうが、静子は結婚以来の静子のままだった。

 

乃木は明治二十四年に休職になり、栃木県那須の田舎にひっこみ、百姓をした。九ヶ月後に歩兵第一旅団長として復帰、二十七年には日清戦争に出征、翌二十八年に凱旋すると、中将、男爵、功三級金鵄勲章の栄誉を受けた。二十九年には南部台湾守備隊司令官、同年、台湾総督に任ぜられた。

 

台湾総督の時は静子と母寿子が同行したが、寿子はここで死んだ。これは静子にとって大きな出来事だったに違いないが、地味な妻としての姿は変わらない。夫が顕職につくに従い、静子の社交ぎらいが目立ちはじめたことぐらいしか、取り上げて書くことはない。もっともこれは社交の不器用さというべきかもしれない。それに静子は余り健康でなかったようで、人の中へ出たがらないのはその影響もあったようだ。

 

静子は地味な女だったが、といって消極的な女ではなかったようだ。文明開化に従って市民生活の中にはいってくる流行などには、積極的に好奇心を持ったようである。自転車が輸入されるとその便利さに目をつけ、当時は随分高価な贅沢品だったが、二人の子供に買い与えている。那須の農場生活では馬に乗って歩いたが、これは彼女の好みだったようだ。ずっとのち、明治四十四年のことだが、静子がイプセンの「人形の家」を観に行ったという記録がある。

この芝居は松井須磨子の主演で、全館イス席というハイカラな帝劇で上演された。「人形の家」上演は、まだ二十代半ばの平塚らいてうら“新しい女”の「青鞜」誌上の派手な論評をはじめ、日本の全進歩派の話題となった。静子の「女大学」流に育てられた目は、どんな見方をしたのだろうか。

 

明治三十一年十月、乃木は三度目の現役に復し、四国善通寺の第十一師団長に単身赴任した。この善通寺時代のストーリーは浪花節などで津々浦々に伝わり、周知のことである。乃木は金倉寺こんそうじという寺に馬丁と二人「戦時のつもり」で住み、軍服を着たまま畳に寝て、毛布一枚で冬の夜をしのいだ。乃木の緊張の想定にはドンキホーテの悲愁感がある。

 

雪の降る大晦日の夜、お高祖こそ頭巾の静子が突然寺を訪ね、「ここは野戦の司令部のつもり」の夫に追い出される所は浪花節のヤマ場である。

静子の用件は、士官学校に在学する長男 勝典の心配ごとの緊急な相談だった。こんな仕打ちに耐え、おまけに大事な用も足りず、ばかばかしいと投げもしない静子は、馴れもあったとはいえ、強い女だったのだろう。司馬遼太郎はその作『殉死』の中に「 ⵈあくまで形式の美しさのほうを希典はその妻に求めた。このいかにも劇的でありすぎる事件 ⵈ」と評している。

ただしこのドラマは乃木の勝手な独演である、ひっぱり出された共演者は、いい面の皮でしかない。だが数多い伝記の中に静子の愚痴や泣き言が一句も出てこないところを見ると、彼女は平然と耐えたのだろう。同時に夫希典の一生を律する形式美などというものにも全く無関心、無感動だったのだろう。

 

二人の息子の戦死

静子は二人の子供を立派に育て “君国に捧げた” 見上げた母であった。殊に長男の勝典は頭もよくなく体も弱かったが、その訓育には力をそそいだ。勝典を厳しく叱った教師があると聞き知って、その教師⸺芹沢登一に礼を尽くして家庭教師を依頼したのも、その一例である。使用人も多い男爵夫人であったが、授業後の茶菓は必ず自分で運び礼を述べた、と芹沢は書いている。非社交的で、とかくの評があった静子の半面である。

 

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乃木夫人と二人の息子 ( 左勝典、右保典 )

 

とかくの評といえば、静子の服装は上流社会での陰口の種であったようだ。芹沢の残した資料でも、⸺夫人は無造作なひっ詰め髪で、地味な紡績絣ぼうせきがすりの着物、ときに二子唐桟とうざんを用い、那須では、めし炊き女のような真岡木綿を着ていたという。天皇の園遊会に黒木綿の紋つきで出て、「あの隅にいる巫女は誰だ」とささやかれたこともあったという。倹約は美徳と、極度にストイックで、その半面に美的感覚にあこがれる乃木と、粗い神経で夫のストイズムに従う静子の生活は矛盾に満ちている。

 

明治三十七年、日露開戦となった。「乃木に乃木の役があろう」という歪曲ないいまわして退けられていた乃木が、陸軍の全歴史を通じる弊風の年功序列で、第三軍司令官として出征した。この戦争で彼は、誰でも知っている旅順と奉天の二度の拙戦で、西南役以来負っている心の傷を救い難く深くする。しかし乃木の深手意識も、憂鬱も、悲劇性も、それらをいかに美に化そうとする精神的努力も、静子にとっては全く迷惑でしかない。

 

先に出征した勝典中尉は五月二十七日、金州城外の戦いで戦死した。乃木は乗船前の広島で知らせを受け、静子に「カツスケメイヨノセンシマンゾクス」と打電した。いかに建前だけの日本の軍人とはいえ、私はこの電文に疑問を感じ、静子に同情する。

 

六月七日、乃木は金州の生々しい戦跡を通過し戦死者墓標に詣で、勝典の死を心中に痛哭しながら不滅の絶唱を残す⸺

  山川草木うたた荒涼 十里風腥かぜなまぐさし新戦場

  征馬不ㇾ前すすまず不ㇾ語かたらず 金州城外立🉂斜陽㈠しゃようにたつ

しかし静子は夫の悲傷の詩を、のちに新聞紙上で初めて読んだ。乃木には妻と悲しみを分かつ気がなかったのだろうか。妻はこの詩を理解する能力がないと思っていたのだろうか。静子は夫の仕打ちをどう感じたのだろうか。乃木の静子への便りは「人馬無事」の四文字だった。

 

十一月三十日、次男 保典少将が二〇三高地の攻撃戦で戦死した。保典は両親に特に愛され期待をかけられていた子だった。 乃木の詩⸺

  爾霊山険豈難ㇾ攀にれいざんのけんあによづるにかたからんや  男子功名期🉂克艱㈠のこうめいはこくかんをきす

  鉄血覆山山形改やまをおおいさんけいあらたまり   万人斉仰ひとしくあおぐ爾霊山

なんじの霊を仰ぐと、希典は心中に涙して感慨をつづった。しかし静子は悲しみを分かたれることも慰められることもなかった。そして東京の留守宅で、涙を見せぬことを美談とする不人情な世間に「希典が旅順攻囲中で沢山の人名を損じ、誠に申し訳がございませんが、二人の子供が立派に死んでくれましたので、せめては、千万分の一なりとも、皆様にお詫びが ⵈ」と、武人の妻の建前を繰り返していた。

 

乃木は戦争が下手なうえに今度も運が悪かった。参謀本部の作戦指導は杜撰ずさんであり、堅牢な要塞攻撃に博物館行きの青銅砲などを与えられていた。

東京では乃木の更迭が議されたが、乃木を好きだった明治天皇の一声で救われた。第三軍司令官から下ろされたら、乃木は自殺したろう。明治帝はそれを知っていた。奉天の拙戦のあげくは、敵弾に身をされして死のうとしたが、幕僚に押しとどめられた。二人の子供は死んだ。静子は「三つの棺がそろうまで葬式を出すな」という希典のいいつけに耐え、乃木を批難する市民の投げる石が雨戸に当たる音に耐えた。

 

乃木は明治三十九年一月十四日、東京に凱旋し直ちに参内、明治天皇に復命した⸺

「 ⵈ然ルニ斯ノ如キ忠勇ノ将卒ヲ以テ旅順ノ攻城ニハ半歳ノ長日月ヲ要シ、多大ノ犠牲ヲ供シ、奉天付近ノ会戦ニハ攻撃力ノ欠亡ニ因リ、退路遮断ノ任務ヲ全クスルニ至ラズ。又敵騎大集団ノ我ガ左側背ニ行動スルニ当リ、此ヲ撃砕スルノ好機ヲ獲ザリシハ臣ガ終生ノ遺憾ニシテ恐懼惜きょうくおク能ハザル所ナリ ⵈ」

 

こんな真っ正直な復命は陸軍の歴史を通じてないだろう。乃木は遂に涙で声を途切らせ、諸官は居たたまれず席をはずした。乃木は礼服を着ておらず、戦塵に汚れた戦闘服で天皇の前に頭を垂れていた。この時も復命後の自殺の意思を察した明治天皇が「まだお前にさせる仕事がある」という言葉でとめている。乃木はわざと演技したのではないが、彼の美意識の絶頂にあった。そして復命を終わったのち、自宅で全幕僚や陸相寺内正毅ら祝賀客の中で泥酔し、暴れ、「どぶろくを買って来い」と、わめき、挙句の果てに軍服を着たまま大の字に倒れてしまった。静子はおそらく、乃木の自虐を理解できる女ではなかった。そしてこの “変な夫” とは無感動でつき合うほかないという習慣が身について、黙ってつき従ったのではないったろうか。そこには明治に残った武家の娘の強情さが生きたように思われる。

 

日露戦争に出征のとき乃木は陸軍大将に昇進し、戦後の論功行賞で功一級金鵄勲章きんしくんしょうと伯爵を授けられ、軍事参議官、学習院院長、宮内省御用掛に任ぜられた。

 

この “位人身を極め” たことが静子にとって何であっろうか。静子の姪の子で乃木夫妻に可愛がられた菊池又祐は「物憂い様子だった。それは二子を失ってから夫人にさして消えぬ影だった」と書き、また「夫妻の日常生活を見て『あれで、お二人とも面白いんでしょうか』と、夫人の姪の一人がしみじみといった」とも書いている。

 

殉死

明治四十五年 ( 1912 ) 七月三十日、明治天皇が薨去こうきょされた。明治十年の西南役の軍旗事件にさかのぼって、天皇に命を預けていた乃木の死ぬときが来た。天皇は希典より二つ年下の六十二歳、希典より十歳年下の静子は五十四歳だった。

 

乃木は天皇薨去の日、されげなく門柱の「乃木希典」の表札をはずした。静子は気づいたのか気づかなかったのか、とにかく何の反応も見せた様子はない。

 

乃木は天皇薨去の直後から二階の居室にこもり、鍵をかけ、書類の整理を始めた。この異状からも静子は何も察知しなかったようである。

彼女は親戚の者に「希典は、せっせと反古を整理しているようです」といっていた。

 

乃木の自刃は御大葬の九月十三日と決められていたことは確かだが、その数日前、静子は親戚の者も同席する席で「相続人を決めておかなければ」といい出した。「天子さまにさえ御定命がおありなのだから、あなたにもしものことがあったとき、私が困ります」といった。希典は、ややあって「何も困ることはない ⵈもし困ると思うなら一緒に死ねばよい」と答えた。

 

静子は「いやでございますよ。私はこれからせいぜい長生きして、お芝居を見たりおいしいものを食べたりして、楽しく生きたいと思っているのでございますもの」と答えた。希典は珍しく笑って「その通りだ」と応じ、一同も笑ってしまった。

 

警視庁警察医岩田凡平が起草した「乃木大将夫妻死体検察始末書」は長文詳細なものだが、その中に「夫人ハ十二日以後ニ至リテ将軍ノ死期ヲ予知セラレ」と記述している。これを補足する文言はないが、書類の性質上確実な根拠があったと思われる。しかし今ではそれを確かめる方法はない。

 

九月十三日御大葬の日、乃木は早朝、風呂に入って身を清めたが、平素は書生に背を流させるのに、この朝は静子を呼んだ。その後、夫妻そろって宮城へ行き殯宮ひんきゅうを拝し帰宅した。夕方早くというより⸺午後四時過ぎかと思われるが、夕食の卓についた。当夜霊柩に供奉するには、六時参内と予定されていた。

 

いつもと同じ質素な夕食だった。「乃木さんの稗飯ひえめし」は伝説になっているが、人が乃木家の食事を敬遠していたことは事実だ。この食卓で希典は少量のぶどう酒を飲み、静子にも、同席の静子の姉 馬場サダ子とその娘にもすすめた。

最後に蒸しパンの柔らかい身をむしって、梅干しを添えて食べた。

 

そして希典は二階の自室にはいったが、参内の時間が来てもおりてこなかった。静子も二階の居室へあがった。希典は二度、静子は何度か階下におりてきた。最後に、七時四十五分に静子がおりてきて、変わった様子もなく、ぶどう酒を持って再び二階へ消えた。

 

八時、霊柩が宮城を出る時刻、当時はさぞ静かだったであろう東京の夜空に大砲の音が響いた。「今夜だけは ⵈ」と聞きとれる静子の高い調子の声が階下に聞こえた。しずらくの静寂のあと、ずうんと重苦しい響きが階下の天井に響き、微かに、苦しそうな呼吸が聞こえるようだった。馬場サダ子は独りごとのようにいった⸺「静子は死にやったのぢゃよ」

 

乃木夫妻の自刃について、事実がわかっているのはこれだけである。その他のことは物証⸺明治帝の恩寵である総ての勲章を飾った軍服と、御大葬参列のための小袿こうちぎ、袴姿の二人の遺体ももはや物証となった⸺から推理するほかない。

 

希典が残した「遺言条々」には「 ⵈ其他ハ静子ヨリ相談可ㇾ仕候つかまつるべく」とあり、彼は自決の直前まで妻と共に死ぬ気はなかった。それがなぜ突然静子を道連れにしたのか⸺。

 

乃木は殉死によって完成する彼の美意識に陶酔していたのではなかったか。そのとき彼の頭に、自分の死後、静子によってその “完成した美” が傷つけられはしないか、という危惧が浮かんだ。《静子は美を解さぬ女だ、大いにありうる》という想いは即座に《許せぬ》という答えをひき出す。美の損傷を防ぐには妻もここで死ななければならぬ。すでに息子二人を君国に捧げ、いま両親しろって自決し乃木の血が絶えれば、悲愴はいやがうえにも増し、美は一層完璧になる。もはや乃木に迷う余地はなかった。

 

静子の辞世の歌「出てましてかへります日のなしときくけあの御幸に逢ふそかなしき」は希典調であるところから、希典の辞世草稿中の一つだという説もある。自分の美を打ちどころのないものにするには、静子をも飾らなければならない。そのために乃木は辞世の歌までを彼女に与えた。

 

⸺これは私の想像である。いずれにせよ、静子の切痕生活は苦行の場でしかなく、持ち前の気の強さでそれに耐え抜いた女だったように思われる。

 

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《底本》

新人物往来社 別冊歴史読本『明治・大正を生きた15人の女たち』p.122 

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昭和55年 ( 1980 夏 ) 4月20日号 

夫に殉じた陸軍大将の妻・乃木静子

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著者: 角田房子

角田 房子(つのだ ふさこ、女性、1914年(大正3年)12月5日 - 2010年(平成22年)1月1日)は、日本のノンフィクション作家、日本ペンクラブ名誉会員。

本名:角田フサ(つのだ ふさ)、旧姓・中村。 

 

東京府生まれ。

福岡女学校(現 福岡女学院中学校・高等学校)専攻科卒業後、ソルボンヌ大学へ留学。第二次世界大戦勃発により、ソルボンヌ大学を退学して帰国。

戦後、新聞記者の夫の転勤に伴って再度渡仏した。

1960年代より執筆活動を開始。精力的な取材と綿密な検証に基づき、日本の近現代史にまつわるノンフィクションを数多く手掛けた。

2010年(平成22年)1月1日、角田が死去していたことが同年3月12日に公表された。

95歳没。

 

 

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