話すとこうなる。――いよいよ死んじまえと思って、体を心持後へ引いて、手の握をゆるめかけた時に、どうせ死ぬなら、ここで死んだって冴えない。待て待て、出てから華厳の瀑へ行けと云う号令――号令は変だが、全く号令のようなものが頭の中に響き渡った。ゆるめかけた手が自然と緊った。曇った眼が、急に明かるくなった。カンテラが燃えている。仰向くと、泥で濡れた梯子段が、暗い中まで続いている。是非共登らなければならない。もし途中で挫折すれば犬死になる。暗い坑で、誰も人のいない所で、日の目も見ないで、鉱と同じようにころげ落ちて、それっきり忘れられるのは――案内の初さんにさえ忘れられるのは――よし見つかっても半獣半人の坑夫共に軽蔑されるのは無念である。是非共登り切っちまわなければならない。カンテラは燃えている。梯子は続いている。梯子の先には坑が続いている。坑の先には太陽が照り渡っている。広い野がある、高い山がある。野と山を越して行けば華厳の瀑がある。――どうあっても登らなければならない。
左の手を頭の上まで伸ばした。ぬらつく段木を指の痕のつくほど強く握った。濡れた腰をうんと立てた。同時に右の足を一尺上げた。カンテラの灯は暗い中を竪に動いて行く。坑は層一層と明かるくなる。踏み棄てて去る段々はしだいしだいに暗い中に落ちて行く。吐く息が黒い壁へ当る。熱い息である。そうして時々は白く見えた。次には口を結んだ。すると鼻の奥が鳴った。梯子はまだ尽きない。懸崖からは水が垂れる。ひらりとカンテラを翻えすと、崖の面を掠めて弓形にじいと、消えかかって、手の運動の止まる所へ落ちついた時に、また真直に油煙を立てる。また翻えす。灯は斜めに動く。梯子の通る一尺幅を外れて、がんがらがんの壁が眼に映る。ぞっとする。眼が眩む。眼を閉って、登る。灯も見えない、壁も見えない。ただ暗い。手と足が動いている。動く手も動く足も見えない。手障足障だけで生きて行く。生きて登って行く。生きると云うのは登る事で、登ると云うのは生きる事であった。それでも――梯子はまだある。
それから先はほとんど夢中だ。自分で登ったのか、天佑で登ったのかほとんど判然しない。ただ登り切って、もう一段も握る梯子がないと云う事を覚った時に、坑の中へぴたりと坐った。
「どうした。上がって来たか。途中で死にゃしねえかと思って、――あんまり長えから。見に行こうかと思ったが、一人じゃ気味がわるいからな。だけども、好く上がって来たな。えらいや」
と待ちかねて、もじもじしていた初さんが大いに喜んでくれた。何でも梯子の上でよっぽど心配していたらしい。自分はただ、
「少し気分が悪るかったから途中で休んでいました」
と答えた。
「気分が悪い? そいつあ困ったろう。途中って、梯子の途中か」
「ええ、まあそうです」
「ふうん。じゃ明日は作業もできめえ」
この一言を聞いた時、自分は糞でも食えと思った。誰が土竜の真似なんかするものかと思った。これでも美しい女に惚れられたんだと思った。坑を出れば、すぐ華厳の瀑まで行くんだと思った。そうして立派に死ぬんだと思った。最後に半時もこんな獣を相手にしていられるものかと思った。そこで、自分は初さんに向って、簡単に、
「よければ上がりましょう」
と云った。初さんは怪訝な顔をした。
「上がる? 元気だなあ」
自分は「馬鹿にするねえ、この明盲目め。人を見損なやがって」と云いたかった。しかし口だけは叮嚀に、一言、
「ええ」
と返事をして置いた。初さんはまだぐずぐずしている。驚いたと云うよりも、やっぱり馬鹿にしたぐずつき方である。
「おい大丈夫かい。冗談じゃねえ。顔色が悪いぜ」
「じゃ僕が先へ行きましょう」
と自分はむっとして歩き出した。
「いけねえ、いけねえ。先へ行っちゃいけねえ、後から尾いて来ねえ」
「そうですか」
「当前だあな。人つけ。誰が案内を置き去にして、先へ行く奴があるかい、何でい」
と初さんは、自分を払い退けないばかりにして、先へ出た。出たと思うと急に速力を増した。腰を折ったり、四つに這ったり、背中を横っ丁にしたり、頭だけ曲げたり、坑の恰好しだいでいろいろに変化する。そうして非常に急ぐ。まるで土の中で生れて、銅脈の奥で教育を受けた人間のようである。畜生中っ腹で急ぎやがるなと、こっちも負けない気で歩き出したが、そこへ行くと、いくら気ばかり張っていても駄目だ。五つ六つ角を曲って、下りたり上ったり、がたつかせているうちに、初さんは見えなくなった。と思うと、何とかして、何とか、てててててと云う歌を唄う。初さんの姿が見えないのに、初さんの声だけは、坑の四方へ反響して、籠ったように打ち返してくる。意地の悪い野郎だと思った。始めのうちこそ、追っついてやるから今に見ていろと云う勢で、根限り這ったり屈んだりしたが、残念な事には初さんの歌がだんだん遠くへ行ってしまう。そこで自分は追いつく事はひとまず断念して、初さんのてててててを道案内にして進む事にした。当分はそれで大概の見当がついたが、しまいにはそのててててても怪しくなって、とうとうまるで聞えなくなった時には、さすがに茫然とした。一本道なら初さんなんどを頼りにしなくっても、自力で日の当る所まで歩いて出て見せるが、何しろ、長年掘荒した坑だから、まるで土蜘蛛の根拠地みたようにいろいろな穴が、とんでもない所に開いている。滅多な穴へ這入るとまた腰きり水に漬る所か、でなければ、例の逆さの桟道へ出そうで容易に踏み込めない。
そこで自分は暗い中に立ち留って、カンテラの灯を見詰めながら考えた。往きには八番坑まで下りて行ったんだから帰りには是非共電車の通る所まで登らなければならない。どんな穴でも上りならば好いとする。その代り下りなら引返して、また出直す事にする。そうして迂路ついていたら、どこかの作事場へ出るだろう。出たら坑夫に聞くとしよう。こう決心をして、東西南北の判然しない所を好い加減に迷ついていた。非常に気が急いて息が切れたが、めちゃめちゃに歩いたために足の冷たいのだけは癒った。しかしなかなか出られない。何だか同じ路を往ったり来たりするような案排で、あんまり、もどかしものだから、壁へ頭をぶつけて割っちまいたくなった。どっちを割るんだと云えば無論頭を割るんだが、幾分か壁の方も割れるだろうくらいの疳癪が起った。どうも歩けば歩くほど天井が邪魔になる、左右の壁が邪魔になる。草鞋の底で踏む段々が邪魔になる。坑総体が自分を閉じ込めて、いつまで立っても出してくれないのがもっとも邪魔になる。この邪魔ものの一局部へ頭を擲きつけて、せめて罅でも入らしてやろうと――やらないまでも時々思うのは、早く華厳の瀑へ行きたいからであった。そうこうしているうちに、向うから一人の掘子が来た。ばらの銅をスノコへ運ぶ途中と見えて例の箕を抱いてよちよちカンテラを揺りながら近づいた。この灯を見つけた時は、嬉しくって胸がどきりと飛び上がった。もう大丈夫と勇んで近寄って行くと、近寄るがものはない、向うでもこっちへ歩いて来る。二つのカンテラが一間ばかりの距離に近寄った時、待ち受けたように、自分は掘子の顔を見た。するとその顔が非常な蒼ん蔵であった。この坑のなかですら、只事とは受取れない蒼ん蔵である。あかるみへ出して、青い空の下で見たら、大変な蒼ん蔵に違ない。それで口を利くのが厭になった。こんな奴の癖に人に調戯ったり、嬲ったり、辱しめたりするのかと思ったら、なおなお道を聞くのが厭になった。死んだって一人で出て見せると云う気になった。手前共に口を聞くような安っぽい男じゃないと、腹の中でたしかに申し渡して擦れ違った。向うは何にも知らないから、これは無論だまって擦れ違った。行く先は暗くなった。カンテラは一つになった。気はますます焦慮って来た。けれどもなかなか出ない。ただ道はどこまでもある。右にも左にもある。自分は右にも這入った、また左にも這入った、また真直にも歩いて見た。しかし出られない。いよいよ出られないのかと、少しく途方に暮れている鼻の先で、かあんかあんと鳴り出した。五六歩で突き当って、折れ込むと、小さな作事場があって、一人の坑夫がしきりに槌を振り上げて鑿を敲いている。敲くたんびに鉱が壁から落ちて来る。その傍に俵がある。これはさっきスノコへ投げ込んだ俵と同じ大きさで、もういっぱい詰っている。掘子が来て担いで行くばかりだ。自分は今度こそこいつに聞いてやろうと思った。が肝心の本人が一生懸命にかあんかあん鳴らしている。おまけに顔もよく見えない。ちょうどいいから少し休んで行こうと云う気が起った。幸い俵がある。この上へ尻をおろせば、持って来いの腰掛になる。自分はどさっとアテシコを俵の上に落した。すると突然かあんかあんがやんだ。坑夫の影が急に長く高くなった。鑿を持ったままである。
「何をしやがるんでい」
鋭い声が穴いっぱいに響いた。自分の耳には敲き込まれるように響いた。高い影は大股に歩いて来る。
見ると、足の長い、胸の張った、体格の逞しい男であった。顔は背の割に小さい。その輪廓がやや判然する所まで来て、男は留まった。そうして自分を見下した。口を結んでいる。二重瞼の大きな眼を見張っている。鼻筋が真直に通っている。色が赭黒い。ただの坑夫ではない。突然として云った。
「貴様は新前だな」
「そうです」
自分の腰はこの時すでに俵を離れていた。何となく、向うから近づいてくる坑夫が恐ろしかった。今まで一万余人の坑夫を畜生のように軽蔑していたのに、――誓って死んでしまおうと覚悟をしていたのに、――大股に歩いて来た坑夫がたちまち恐ろしくなった。しかし、
「何でこんな所を迷子ついてるんだ」
と聞き返された時には、やや安心した。自分の様子を見て、故意に俵の上へ腰をおろしたんでないと見極めた語調である。
「実は昨夕飯場へ着いて、様子を見に坑へ這入ったばかりです」
「一人でか」
「いいえ、飯場頭から人をつけてくれたんですが……」
「そうだろう、一人で這入れる所じゃねえ。どうしたその案内は」
「先へ出ちまいました」
「先へ出た? 手前を置き去りにしてか」
「まあ、そうです」
「太え野郎だ。よしよし今に己が送り出してやるから待ってろ」
と云ったなり、また鑿と槌をかあんかあん鳴らし始めた。自分は命令の通り待っていた。この男に逢ったら、もう一人で出る気がなくなった。死んでも一人で出て見せると威張った決心が、急にどこへか行ってしまった。自分はこの変化に気がついていた。それでも別に恥かしいとも思わなかった。人に公言した事でないから構わないと思った。その後人に公言したために、やらないでも済む事、やってはならない事を毎度やった。人に公言すると、しないのとは大変な違があるもんだ。その内かあんかあんがやんだ。坑夫はまた自分の前まで来て、胡坐をかきながら、
「ちょっと待ちねえ。一服やるから」
と、煙草入を取り出した。茶色の、皮か紙か判然しないもので、股引に差し込んである上から筒袖が被さっていた。坑夫は旨そうに腹の底まで吸った煙を、鼻から吹き出している間に、短い羅宇の中途を、煙草入の筒でぽんと払いた。小さい火球が雁首から勢いよく飛び出したと思ったら、坑夫の草鞋の爪先へ落ちてじゅうと消えた。坑夫は殻になった煙管をぷっと吹く。羅宇の中に籠った煙が、一度に雁首から出た。坑夫はその時始めて口を利いた。
「御前はどこだ。こんな所へ全体何しに来た。身体つきは、すらりとしているようだが。今まで働いた事はねえんだろう。どうして来た」
「実は働いた事はないんです。が少し事情があって、来たんです。……」
とまでは云ったが、坑夫には愛想が尽きたから、もう、帰るんだとは云わなかった。死ぬんだとはなおさら云わなかった。しかし今までのように、腹の内で畜生あつかいにして、口先ばかり叮嚀にしていたのとはだいぶん趣が違う。自分はただ洗い攫い自分の思わくを話してしまわないだけで、話しただけは真面目に話したんである。すこしも裏表はない。腹から叮嚀に答えた。坑夫はしばらくの間黙って雁首を眺めていた。それからまた煙草を詰めた。煙が鼻から出だした真最中に口を開いた。
自分がその時この坑夫の言葉を聞いて、第一に驚いたのは、彼の教育である。教育から生ずる、上品な感情である。見識である。熱誠である。最後に彼の使った漢語である。――彼れは坑夫などの夢にも知りようはずがない漢語を安々と、あたかも家庭の間で昨日まで常住坐臥使っていたかのごとく、使った。自分はその時の有様をいまだに眼の前に浮べる事がある。彼れは大きな眼を見張ったなり、自分の顔を熟視したまま、心持頸を前の方に出して、胡坐の膝へ片手を逆に突いて、左の肩を少し聳して、右の指で煙管を握って、薄い唇の間から奇麗な歯を時々あらわして、――こんな事を云った。句の順序や、単語の使い方は、たしかな記憶をそのまま写したものである。ただ語声だけはどうしようもない。――
「亀の甲より年の功と云うことがあるだろう。こんな賤しい商売はしているが、まあ年長者の云う事だから、参考に聞くがいい。青年は情の時代だ。おれも覚がある。情の時代には失敗するもんだ。君もそうだろう。己もそうだ。誰でもそうにきまってる。だから、察している。君の事情と己の事情とは、どのくらい違うか知らないが、何しろ察している。咎めやしない。同情する。深い事故もあるだろう。聞いて相談になれる身体なら聞きもするが、シキから出られない人間じゃ聞いたって、仕方なし、君も話してくれない方がいい。おれも……」
と云い掛けた時、自分はこの男の眼つきが多少異様にかがやいていたと云う事に気がついた。何だか大変感じている。これが当人の云うごとくシキを出られないためか、または今云い掛けたおれもの後へ出て来る話のためか、ちょっと分りにくいが、何しろ妙な眼だった。しかもこの眼が鋭く自分をも見詰めている。そうしてその鋭いうちに、懐旧と云うのか、沈吟と云うのか、何だか、人を引きつけるなつかしみがあった。この黒い坑の中で、人気はこの坑夫だけで、この坑夫は今や眼だけである。自分の精神の全部はたちまちこの眼球に吸いつけられた。そうして彼の云う事を、とっくり聞いた。彼はおれもを二遍繰り返した。
「おれも、元は学校へ行った。中等以上の教育を受けた事もある。ところが二十三の時に、ある女と親しくなって――詳しい話はしないが、それが基で容易ならん罪を犯した。罪を犯して気がついて見ると、もう社会に容れられない身体になっていた。もとより酔興でした事じゃない、やむを得ない事情から、やむを得ない罪を犯したんだが、社会は冷刻なものだ。内部の罪はいくらでも許すが、表面の罪はけっして見逃さない。おれは正しい人間だ、曲った事が嫌だから、つまりは罪を犯すようにもなったんだが、さて犯した以上は、どうする事もできない。学問も棄てなければならない。功名も抛たなければならない。万事が駄目だ。口惜しいけれども仕方がない。その上制裁の手に捕えられなければならない。(故意か偶然か、彼はとくに制裁の手と云う言語を使用した。)しかし自分が悪い覚がないのに、むやみに罪を着るなあ、どうしても己の性質としてできない。そこで突っ走った。逃げられるだけ逃げて、ここまで来て、とうとうシキの中へ潜り込んだ。それから六年というもの、ついに日光を見た事がない。毎日毎日坑の中でかんかん敲いているばかりだ。丸六年敲いた。来年になればもうシキを出たって構わない、七年目だからな。しかし出ない、また出られない。制裁の手には捕まらないが、出ない。こうなりゃ出たって仕方がない。娑婆へ帰れたって、娑婆でした所業は消えやしない。昔は今でも腹ん中にある。なあ君昔は今でも腹ん中にあるだろう。君はどうだ……」
と途中で、いきなり自分に質問を掛けた。
自分は藪から棒の質問に、用意の返事を持ち合せなかったから、はっと思った。自分の腹ん中にあるのは、昔どころではない。一二年前から一昨日まで持ち越した現在に等しい過去である。自分はいっその事自分の心事をこの男の前に打ち明けてしまおうかと思った。すると相手は、さも打ち明けさせまいと自分を遮るごとくに、話の続きを始めた。
「六年ここに住んでいるうちに人間の汚ないところは大抵見悉した。でも出る気にならない。いくら腹が立っても、いくら嘔吐を催しそうでも、出る気にならない。しかし社会には、――日の当る社会には――ここよりまだ苦しい所がある。それを思うと、辛抱も出来る。ただ暗くって狭い所だと思えばそれで済む。身体も今じゃ銅臭くなって、一日もカンテラの油を嗅がなくっちゃいられなくなった。しかし――しかしそりゃおれの事だ。君の事じゃない。君がそうなっちゃ大変だ。生きてる人間が銅臭くなっちゃ大変だ。いや、どんな決心でどんな目的を持って来ても駄目だ。決心も目的もたった二三日で突ッつき殺されてしまう。それが気の毒だ。いかにも可哀想だ。理想も何にもない鑿と槌よりほかに使う術を知らない野郎なら、それで結構だが。しかし君のような――君は学校へ行ったろう。――どこへ行った。――ええ? まあどこでもいい。それに若いよ。シキへ抛り込まれるには若過ぎるよ。ここは人間の屑が抛り込まれる所だ。全く人間の墓所だ。生きて葬られる所だ。一度踏ん込んだが最後、どんな立派な人間でも、出られっこのない陥穽だ。そんな事とは知らずに、大方ポン引の言いなりしだいになって、引張られて来たんだろう。それを君のために悲しむんだ。人一人を堕落させるのは大事件だ。殺しちまう方がまだ罪が浅い。堕落した奴はそれだけ害をする。他人に迷惑を掛ける。――実はおれもその一人だ。が、こうなっちゃ堕落しているよりほかに道はない。いくら泣いたって、悔んだって堕落しているよりほかに道はない。だから君は今のうち早く帰るがいい。君が堕落すれば、君のためにならないばかりじゃない。――君は親があるか……」
自分はただ一言あると答えた。
「あればなおさらだ。それから君は日本人だろう……」
自分は黙っていた。
「日本人なら、日本のためになるような職業についたらよかろう。学問のあるものが坑夫になるのは日本の損だ。だから早く帰るがよかろう。東京なら東京へ帰るさ。そうして正当な――君に適当な――日本の損にならないような事をやるさ。何と云ってもここはいけない。旅費がなければ、おれが出してやる。だから帰れ。分ったろう。おれは山中組にいる。山中組へ来て安さんと聞きゃあすぐ分る。尋ねて来るが好い。旅費はどうでも都合してやる」
安さんの言葉はこれで終った。坑夫の数は一万人と聞いていた。その一万人はことごとく理非人情を解しない畜類の発達した化物とのみ思い詰めたこの時、この人に逢ったのは全くの小説である。夏の土用に雪が降ったよりも、坑の中で安さんに説諭された方が、よほどの奇蹟のように思われた。大晦日を越すとお正月が来るくらいは承知していたが、地獄で仏と云う諺も記憶していたが、窮まれば通ずという熟語も習った事があるが、困った時は誰か来て助けてくれそうなものだくらいに思って、芝居気を起しては困っていた事もたびたびあるが、――この時はまるで違う。真から一万人を畜生と思い込んで、その畜生がまたことごとく自分の敵だと考え詰めた最強度の断案を、忘るべからざる痛忿の焔で、胸に焼きつけた折柄だから、なおさらこの安さんに驚かされた。同時に安さんの訓戒が、自分の初志を一度に翻えし得るほどの力をもって、自分の耳に応えた。
しばらくは二人して黙っていた。安さんは一応云うだけの事を云ってしまったんだから、口を利かないはずであるが、自分は先方に対して、何とか返事をする義務がある。義務をかいては安さんに済まない。心底から感謝の意を表した上で、自分の考えも少し聞いてもらいたいのは山々であったが、何分にも鼻の奥が詰って不自由である。しかも強いて言葉を出そうとすると、口へ出ないで鼻へ抜けそうになる。それを我慢すると、唇の両端がむずむずして、小鼻がぴくついて来る。やがて鼻と口を塞かれた感動が、出端を失って、眼の中にたまって来た。睫が重くなる。瞼が熱くなる。大に困った。安さんも妙な顔をしている。二人ともばつが悪くなって、差し向いで胡坐をかいたまま、黙っていた。その時次の作事場で鉱を敲く音がかあんかあん鳴った。今考えると、自分と安さんが黙然と顔を見合せていた場所は、地面の下何百尺くらいな深さだか、それを正確に知って置きたかった。都会でも、こんな奇遇は少い。銅山の中では有ろうはずがない。日の照らない坑の底で、世から、人から、歴史から、太陽からも、忘れられた二人が、ありがたい誨を垂れて、尊とい涙を流した舞台があろうとは、胡坐をかいて、黙然と互に顔を見守っていた本人よりほかに知るものはあるまい。
安さんはまた煙草を呑み出した。ぷかりぷかりと煙が出た。その煙が濃く出ては暗がりに消え、濃く出ては暗がりに消える間に、自分はようやく声が自由になった。
「ありがたいです。なるほどあなたのおっしゃる通り人間のいる所じゃないでしょう。僕もあなたに逢うまでは、今日限り銅山を出ようかと思ってたんです。……」
さすが山を出て死ぬつもりだったとは云いかねたから、ここでちょっと句を切ったら、
「そりゃなおさらだ。さっそく帰るがいい」
と、安さんが勢いをつけてくれた。自分はやっぱり黙っていた。すると、
「だから旅費はおれが拵えてやるから」
と云う。自分はさっきから旅費旅費と聞かされるのを、ただ善意に解釈していたが、さればと云って毫も貰う気は起らなかった。昨日飯場頭の合力を断った時の料簡と同じかと云うと、それとも違う。昨日は是非貰いたかった、地平へ手を突いてまで貰いたかった。しかし草鞋銭を貰うよりも、坑夫になる方が得だと勘定したから、手を出して頂きたいところを、無理に断ったんである。安さんの旅費は始めから貰いたくない。好意を空しくすると云う点から見れば、貰わなければ済まないし、坑夫をやめるとすれば貰う方が便利だが、それにもかかわらず貰いたくなかった。これは今から考えると、全く向うの人格に対して、貰っては恥ずべき事だ、こちらの人格が下がるという念から萌したものらしい。先方がいかにも立派だから、こっちも出来るだけ立派にしたい、立派にしなければ、自分の体面を損う虞がある。向うの好意を享けて、相当の満足を先方に与えるのは、こちらも悦ばしいが、受けるべき理由がないのに、濫りに自己の利得のみを標準に置くのは、乞食と同程度の人間である。自分はこの尊敬すべき安さんの前で、自分は乞食である、乞食以上の人物でないと云う事実上の証明を与えるに忍びなかった。年が若いと馬鹿な代りに存外奇麗なものである。自分は
「旅費は頂きません」
と断った。
この時安さんは、煙草を二三ぶく吸して、煙管を筒へ入れかけていたが、自分の顔をひょいと見て
「こりゃ失敬した」
と云ったんで、自分は非常に気の毒になった。もしやるから貰って置けとでも強いられたならきっと受けたに違ない。その後気をつけて、人が金を貰うところを見ていると、始めは一応辞退して、後では大抵懐へ入れるようだが、これは全くこの心理状態の発達した形式に過ぎないんだろうと思う。幸い安さんがえらい男で、「こりゃ失敬した」と云ってくれたんで、自分はこの形式に陥らずに済んだのはありがたかった。
安さんはすぐさま旅費の件を撤回して
「だが東京へは帰るだろうね」
と聞き直した。自分は、死ぬ決心が少々鈍った際だから、ことによれば、旅費だけでも溜めた上、帰る事にしようと云う腹もあったんで、
「よく考えて見ましょう。いずれその中また御相談に参りますから」
と答えた。
「そうか。それじゃ、とにかく路の分る所まで送ってやろう」
と煙草入を股引へ差し込んで、上から筒服の胴を被せた。自分はカンテラを提げて腰を上げた。安さんが先へ立つ。坑は存外登り安かった。例の段々を四五遍通り抜けて、二度ほど四つん這いになったら、かなり天井の高い、真直に立って歩けるような路へ出た。それをだらだらと廻り込んで、右の方へ登り詰めると、突然第一見張所の手前へ出た。安さんは電気灯の見える所で留った。
「じゃ、これで別れよう。あれが見張所だ。あすこの前を右へついて上がると、軌道の敷いてある所へ出る。それから先は一本道だ。おれはまだ時間が早いから、もう少し働いてからでなくっちゃあ出られない。晩には帰る。五時過ならいるから、暇があったら来るがいい。気をつけて行きたまえ。さようなら」
安さんの影はたちまち暗い中へ這入った。振り向いて、一口礼を云った時は、もうカンテラが角を曲っていた。自分は一人でシキの入口を出た。ふらふら長屋まで帰って来る。途中でいろいろ考えた。あの安さんと云う男が、順当に社会の中で伸びて行ったら、今頃は何に成っているか知らないが、どうしたって坑夫より出世しているに違ない。社会が安さんを殺したのか、安さんが社会に対して済まない事をしたのか――あんな男らしい、すっきりした人が、そうむやみに乱暴を働く訳がないから、ことによると、安さんが悪いんでなくって、社会が悪いのかも知れない。自分は若年であったから、社会とはどんなものか、その当時明瞭に分らなかったが、何しろ、安さんを追い出すような社会だから碌なもんじゃなかろうと考えた。安さんを贔屓にするせいか、どうも安さんが逃げなければならない罪を犯したとは思われない。社会の方で安さんを殺したとしてしまわなければ気が済まない。その癖今云う通り社会とは何者だか要領を得ない。ただ人間だと思っていた。その人間がなぜ安さんのような好い人を殺したのかなおさら分らなかった。だから社会が悪いんだと断定はして見たが、いっこう社会が憎らしくならなかった。ただ安さんが可哀想であった。できるなら自分と代ってやりたかった。自分は自分の勝手で、自分を殺しにここまで来たんである。厭になれば帰っても差支ない。安さんは人間から殺されて、仕方なしにここに生きているんである。帰ろうたって、帰る所はない。どうしても安さんの方が気の毒だ。
安さんは堕落したと云った。高等教育を受けたものが坑夫になったんだから、なるほど堕落に違ない。けれどもその堕落がただ身分の堕落ばかりでなくって、品性の堕落も意味しているようだから痛ましい。安さんも達磨に金を注ぎ込むのかしら、坑の中で一六勝負をやるのかしら、ジャンボーを病人に見せて調戯うのかしら、女房を抵当に――まさか、そんな事もあるまい。昨日着き立ての自分を見て愚弄しないもののないうちで、安さんだけは暗い穴の底ながら、十分自分の人格を認めてくれた。安さんは坑夫の仕事はしているが、心までの坑夫じゃない。それでも堕落したと云った。しかもこの堕落から生涯出る事ができないと云った。堕落の底に死んで活きてるんだと云った。それほど堕落したと自覚していながら、生きて働いている。生きてかんかん敲いている。生きて――自分を救おうとしている。安さんが生きてる以上は自分も死んではならない。死ぬのは弱い。……
こう決心をして、何でも構わないから、ひとまず坑夫になった上として、できるだけ急ぎ足で帰って来ると、長屋の半丁ばかり手前に初さんが石へ腰を掛けて待っている。雨は歇んだ。空はまだ曇っているが、濡れる気遣はない。山から風が吹いて来る。寒くても、世界の明かるいのが、非常に嬉しい。自分が嬉しさの余り、疲れた足を擦りながら、いそいそ近づいてくると、初さんは奇怪な顔をして、
「やあ出て来たな。よく路が分ったな」
と云った。自分が案内につけられながら、他を置き去りにして、何とかして何とか、てててててと云う唄をうたって、大いに焦して置いて、他が大迷つきに、迷ついて、穴の角へ頭をぶっつけて割って見ようとまで思ったあげく、やっとの事で安さんの御情で出て来れば、「よく路が分ったな」と空とぼけている。その癖親方が怖いものだから、途中で待ち合せて、いっしょに連れて帰ろうと云う目算である。自分は石へ腰を掛けて薄笑いをしているこの案内の頭の上へ唾液を吐きかけてやろうかと思った。しかし自分は死ぬのを断念したばかりである。当分はここに留まらなくっちゃならない身体である。唾液を吐きかければ、喧嘩になるだけである。喧嘩をすれば負けるだけである。負けた上にスノコの中へぶちこまれてはせっかく死ぬのを断念した甲斐がない。そこで、こう云う答をした。
「どうか、こうか出て来ました」
すると初さんはなおさら不思議な顔をして、
「へえ。感心だね。一人で出て来たのか」
と聞いた。その時自分は年の割にはうまくやった。旨くやったと云うくらいだから、ただ自分の損にならないようにと云うだけで、それより以外に賞める価値のある所作じゃないが、とにかく十九にしては、なかなか複雑な曲者だと思う。と云うのは、こう聞かれた時に、安さんの名前がつい咽喉の先まで出たんである。ところをとうとう云わずにしまったのが自慢なのだ。随分くだらない自慢だが訳を話せば、こんな料簡であった。山中組の安さんは勢力のある坑夫に違ない。この安さんがわざわざ第一見張所の傍まで見ず知らずの自分を親切に連れて来てくれたと云う事が知れ渡れば、この案内者は面目を失うにきまっている。責任のある自分が、責任を抛り出して、先へ坑を飛び出してしまったと分る以上は――しかもそれが悪意から出たと明瞭に証拠だてられる以上は、こいつは親方に対して済ましちゃいられない。となると後できっと敵を打つだろう。無責任が露見るのは痛快だが――自分はけっして寛大の念に制せられたなんて耶蘇教流の嘘はつかない。――そこまでは痛快だが、敵打は大に迷惑する。実のところ自分はこの迷惑の念に制せられた。それで、
「ええ、いろいろ路を聞いて出て来ました」
とおとなしい返事をして置いた。
初さんは半分失望したような、半分安心したような顔つきをしたが、やがて石から腰を上げて、
「親方の所へ行こう」
とまた歩き出した。自分は黙って尾いて行った。昨日親方に逢ったのは飯場だが、親方の住んでる所は別にある。長屋の横を半丁ほど上ると、石垣で二方の角を取って平した地面の上に二階建がある。家はさほど見苦しくもないが、家のほかには木も庭もない。相変らず二階の窓から悪魔が首を出している。入口まで来て、初さんが外から声を掛けると、窓をがらりと開けて、飯場頭が顔を出した。米利安の襯衣の上へどてらを着たままである。
「帰ったか。御苦労だった。まああっちへ行って休みねえ」
と云うが早いか初さんは消えてなくなった。後は二人になる。親方は窓の中から、自分は表に立ったまま、談話をした。
「どうです」
「大概見て来ました」
「どこまで降りました」
「八番坑まで降りました」
「八番坑まで。そりゃ大変だ。随分ひどかったでしょう。それで……」
と心持首を前の方へ出した。
「それで――やっぱりいるつもりです」
「やっぱり」
と繰り返したなり、飯場頭はじっと自分の顔を見ていた。自分も黙って立っていた。二階からは依然として首が出ている。おまけに二つばかり殖えた。この顔を見ると、厭で厭でたまらない。飯場へ帰ってから、この顔に取り巻かれる事を思い出すと、ぞっとする。それでもいる気である。どんな辛抱をしてもいる気である。しかし「やっぱりいるつもりです」と断然答えて置いて、二階の顔を不意に見上げた時には、さすがに情なかった。こんな奴といっしょに置いてくれと、手を合せて拝まなければ始末がつかないようになり下がったのかと思うと、身体も魂も塩を懸けた海鼠のようにたわいなくなった。その時飯場頭はようやく口を利いた。奇麗さっぱりと利いた。
「じゃ置く事にしよう。だが規則だから、医者に一遍見て貰ってね。健康の証明書を持って来なくっちゃいけない。――今日と――今日は、もう遅いから、明日の朝、行って見て貰ったらよかろう。――診察場かい。診察場はこれから南の方だ。上がって来る時、見えたろう。あの青いペンキ塗りの家だ。じゃ今日は疲れたろうから、飯場へ帰って緩くり御休み」
と云って窓を閉てた。窓を閉てる前に自分はちょっと頭を下げて、飯場へ引返した。緩くり御休と云ってくれた飯場頭の親切はありがたいが、緩くり寝られるくらいなら、こんなに苦しみはしない。起きていれば獰猛組、寝れば南京虫に責められるばかりだ。たまたま飯の蓋を取れば咽喉へ通らない壁土が出て来る。――しかしいる。いるときめた以上は、どうしてもいて見せる。少くとも安さんが生きてるうちはいる。シキの人間がみんな南京虫になっても、安さんさえ生きて働いてるうちは、自分も生きて働く考えである。こう考えながら半丁ほどの路を降りて飯場へ帰って、二階へ上がった。上がると案のじょう大勢囲炉裏の傍に待ち構えている。自分はくさくさしたが、できるだけ何喰わぬ顔をして、邪魔にならないような所へ坐った。すると始まった。皮肉だか、冷評だか、罵詈だか、滑稽だか、のべつに始まった。
一々覚えている。生涯忘れられないほどに、自分の柔らかい頭を刺激したから、よく覚えている。しかし一々繰返す必要はない。まず大体昨日と同じ事と思えば好い。自分は急に安さんに逢いたくなった。例の夕食を我慢して二杯食って、みんなの眼につかないようにそっと飯場を抜け出した。
山中組はジャンボーの通った石垣の間を抜けて、だらだら坂の降り際を、右へ上ると斜に頭の上に被さっている大きな槐の奥にある。夕暮の門口を覗いたら、一人の掘子がカンテラの灯で筒服の掃除をしていた。中は存外静かである。
「安さんは、もうお帰りになりましたか」
と叮嚀に聞くと、掘子は顔を上げてちょいと自分を見たまま、奥を向いて、
「おい、安さん、誰か尋ねて来たよ」
と呼び出しにかかるや否や、安さんは待ってたと云わんばかりに足音をさせて出て来た。
「やあ来たな。さあ上れ」
見ると安さんは唐桟の着物に豆絞か何にかの三尺を締めて立っている。まるで東京の馬丁のような服装である。これには少し驚いた。安さんも自分の様子を眺めて首を傾げて、
「なるほど東京を走ったまんまの服装だね。おれも昔はそう云う着物を着たこともあったっけ。今じゃこれだ」
と両袖の裄を引っ張って見せる。
「何と見える。車引かな」
と云うから、自分は遠慮してにやにや笑っていた。安さんは、
「ハハハハ根性はこれよりまだ堕落しているんだ。驚いちゃいけない」
自分は何と答えていいか分らないから、やはりにやにや笑って立っていた。この時分は手持無沙汰でさえあればにやにやして済ましたもんだ。そこへ行くと安さんは自分より遥か世馴れている。この体を見て、
「さっきから来るだろうと思って待っていた。さあ上れ」
と向うから始末をつけてくれた。この人は世馴れた知識を応用して、世馴れない人を救ける方の側だと感心した。こいつを逆にして馬鹿にされつけていたから特別に感心したんだろう。そこで安さんの云う通り長屋へ上って見た。部屋はやっぱり広いが、自分の泊った所ほどでもない。電気灯は点いている。囲炉裏もある。ただ人数が少い、しめて五六人しかいない。しかも、それが向うに塊ってるから、こっちはたった二人である。そこでまた話を始めた。
「いつ帰る」
「帰らない事にしました」
安さんは馬鹿だなあと云わないばかりの顔をして呆れている。
「あなたのおっしゃった事は、よく分っています。しかし僕だって、酔興にここまで来た訳じゃないんですから、帰るったって帰る所はありません」
「じゃやっぱり世の中へ顔が出せないような事でもしたのか」
と安さんは鋭い口調で聞いた。何だか向うの方がぎょっとしたらしい。
「そうでもないんですが――世の中へ顔が出したくないんです」
と答えると、自分の態度と、自分の顔つきと、自分の語勢を注意していた安さんが急に噴き出した。
「冗談云っちゃいけねえ。そんな酔狂があるもんか。世の中へ顔が出したくないた何の事だ。贅沢じゃねえか。そんな身分に一日でも好いからなって見てえくらいだ」
「代れれば代って上げたいと思います」
と至極真面目に云うと、安さんは、また噴き出した。
「どうも手のつけようがないね。考えて御覧な。世の中へ顔が出したくないものがさ、このシキへ顔が出したくなれるかい」
「ちっとも出したくはありません。仕方がないから――仕方がないんです。昨夕も今日も散々苛責られました」
安さんはまた笑い出した。
「太え野郎だ。誰が苛責た。年の若いものつらまえて。よしよしおれが今に敵を打ってやるから。その代り帰るんだぜ」
自分はこの時大変心丈夫になった。なおなお留まる気になった。あんな獰猛もこっちさえ強くなりゃちっとも恐ろしかないんだ、十把一束に罵倒するくらいの勇気がだんだん出てくるんだと思った。そこで安さんに敵は取ってくれないでも好いから、どうか帰さずに当分置いて貰えまいかと頼んだ。安さんは、あまりの馬鹿らしさに、気の毒そうな顔をして、呆れ返っていたが、
「それじゃ、いるさ。――何も頼むの頼まないのって、そりゃ君の勝手だあね。相談するがものはないや」
「でも、あなたが承知して下さらないと、いにくいですから」
「せっかくそう云うんなら、当分にするがいい。長くいちゃいけない」
自分は謹んで安さんの旨を領した。実際自分もその考えでいたんだから、これはけっして御交際の挨拶ではなかった。それからいろいろな話をしたがシキの中の述懐と大した変りはなかった。ただ安さんの兄さんが高等官になって長崎にいると云う事を聞いて、大いに感動した。安さんの身になっても、兄さんの身になっても、定めし苦しいだろうと思うにつけ、自分と自分の親と結びつけて考え出したら何となく悲しくなった。帰る時に安さんが出口まで送って来て、相談でもあるならいつでも来るが好いと云ってくれた。
表へ出ると、いつの間にか曇った空が晴れて、細い月が出ている。路は存外明るい、その代り大変寒い。袷を通して、襯衣を通して、蒲鉾形の月の光が肌まで浸み込んで来るようだ。両袖を胸の前へ合せて、その中へ鼻から下を突込んで肩をできるだけ聳やかして歩行き出した。身体はいじけているが腹の中はさっきよりだいぶん豊かになった。何の当分のうちだ。馴れればそう苦にする事はない。何しろ一万余人もかたまって、毎日毎日いっしょに働いて、いっしょに飯を食って、いっしょに寝ているんだから、自分だって七日も練習すれば、一人前に堕落する事はできるに違ない。――この時自分の頭の中には、堕落の二字がこの通りに出て来た。しかしただこの場合に都合のいい文字として湧いて出たまでで、堕落の内容を明かに代表していなかったから、別に恐ろしいとも思わなかった。それで、比較的元気づいて飯場へ帰って来た。五六間手前まで来ると、何だかわいわい云っている。外は淋しい月である。自分は家の騒ぎを聞いて、淋しい月を見上げて、しばらく立っていた。そうしたら、どうも這入るのが厭になった。月を浴びて外に立っているのも、つらくなった。安さんの所へ行って泊めてもらいたくなった。一歩引き返して見たが、あんまりだと気を取り直して、のそのそ長屋へ這入った。横手に広い間があって、上り口からは障子で立て切ってある。電気灯が頭の上にあるから影は一つも差さないが、騒ぎはまさにこの中から出る。自分は下駄を脱いで、足音のしないように、障子の傍を通って、二階へ上がった。段々を登り切って、大きな部屋を見渡した時、ほっと一息ついた。部屋には誰もいない。
ただ金さんが平たく煎餅のようになって寝ている。それから例の帆木綿にくるまって、ぶら下がってる男もいる。しかし両方とも極めて静かだ。いてもいないと同じく、部屋は漠然としてただ広いものだ。自分は部屋の真中まで来て立ちながら考えた。床を敷いて寝たものだろうか、ただしは着のみ着のままで、ごろりと横になるか、または昨夕の通り柱へ倚れて夜を明そうか。ごろ寝は寒い、柱へ倚り懸るのは苦しい。どうかして布団を敷きたい。ことによれば今日は疲れ果てているから、南京虫がいても寝られるかも知れない。それに蒲団の奇麗なのを選ったらよかろう。ことさら日によって、南京虫の数が違わないとも限るまい。といろいろな理窟をつけて布団を出して、そうっと潜り込んだ。
この晩の、経験を記憶のまま、ここに書きつけては、自分がお話しにならない馬鹿だと吹聴する事になるばかりで、ほかに何の利益も興味もないからやめる。一口に云うと、昨夜と同じような苦しみを、昨夜以上に受けて、寝るが早いか、すぐ飛び起きちまった。起きた後で、あれほど南京虫に螫されながら、なぜ性懲もなくまた布団を引っ張り出して寝たもんだろうと後悔した。考えると、全くの自業自得で、しかも常識のあるものなら誰でも避けられる、また避けなければならない自業自得だから、我れながら浅ましい馬鹿だと、つくづく自分が厭になって、布団の上へ胡坐をかいたまま、考え込んでいると、また猛烈にちくりと螫された。臀と股と膝頭が一時に飛び上がった。自分は五位鷺のように布団の上に立った。そうして、四囲を見廻した。そうして泣き出した。仕方がないから、紺の兵児帯を解いて、四つに折って、裸の身体中所嫌わず、ぴしゃぴしゃ敲き始めた。それから着物を着た。そうして昨夜の柱の所へ行った。柱に倚りかかった。家が恋しくなった。父よりも母よりも、艶子さんよりも澄江さんよりも、家の六畳の間が恋しくなった。戸棚に這入ってる更紗の布団と、黒天鵞絨の半襟の掛かった中形の掻捲が恋しくなった。三十分でも好いから、あの布団を敷いて、あの掻捲を懸けて、暖たかにして楽々寝て見たい、今頃は誰があの部屋へ寝ているだろうか。それとも自分がいなくなってから後は、机を据えたまんま、空ん胴にしてあるかしらん。そうすると、あの布団も掻捲も、畳んだなり戸棚にしまってあるに違ない。もったいないもんだ。父も母も澄江さんも艶子さんも南京虫に食われないで仕合せだ。今頃は熟睡しているだろう。羨ましい。――それとも寝られないで、のつそつしているかしらん。父は寝られないと疳癪を起して、夜中に灰吹をぽんぽん敲くのが癖だ。煙草を呑むんだと云うが、煙草は仮託で、実は、腹立紛れに敲きつけるんじゃないかと思う。今頃はしきりに敲いてるかも知れない。苦々しい倅だと思って敲いてるか、どうなったろうと心配の余り眼を覚まして敲いてるか。どっちにしても気の毒だ。しかしこっちじゃそれほどにも思っていないから、先方でもそう苦にしちゃいまい。母は寝られないと手水に起きる。中庭の小窓を明けて、手を洗って、桟をおろすのを忘れて、翌朝よく父に叱られている。昨夜も今夜もきっと叱られるに違ない。澄江さんはぐうぐう寝ている――どうしても寝ている。自分のいる前では、丸くなったり、四角になったりいろいろな芸をして、人を釣ってるが、いなくなれば、すぐに忘れて、平生の通り御膳をたべて、よく寝る女だから、是非に及ばない。あんな女は、今まで見た新聞小説にはけっして出て来ないから、始めは不思議に思ったが、ちゃんと証拠があるんだから確かである。こう云う女に恋着しなければならないのは、よッぽどの因果だ。随分憎らしいと思うが、憎らしいと思いながらもやッぱり惚れ込んでいるらしい。不都合な事だ。今でも、あの色の白い顔が眼前にちらちらする。怪しからない顔だ。艶子さんは起きてる。そうして泣いてるだろう。はなはだ気の毒だ。しかしこっちで惚れた覚もなければ、また惚れられるような悪戯をした事がないんだから、いくら起きていても、泣いてくれても仕方がない。気の毒がる事は、いくらでも気の毒がるが仕方がない。構わない事にする。――そこで最後には、ほかの事はどうともするから、ただ安々と楽寝がさせて貰いたい。不断の白い飯も虫唾が走るように食いたいが、それよりか南京虫のいない床へ這入りたい。三十分でも好いからぐっすり寝て見たい。その後でなら腹でも切る。……
こう考えているとまた夜が明けた。考えている途中でいつか寝たものと見えて、眼が覚めた時は、何にも考えていなかった。それからあとは、のそのそ下へ降りて行って、顔を洗って、南京米を食う。万事昨日の通りだから、省いてしまう。九時の例刻を待ちかねて病院へ出掛ける。病院は一昨日山を登って来る時に見た、青いペンキ塗の建物と聞いているから道も家も間違えようがない。飯場を出て二丁ばかり行くと、すぐ道端にある。木造ではあるがなかなか立派な建築で、広さもかなりだけに、獰猛組とはまるで不釣合である。野蛮人が病気をするんでさえすでに不思議なくらいだのに、病気に罹ったものを治療してやるための器械と薬品と医者と建物を具えつけたんだから、世の中は妙だと云う感じがすぐに起る。まるで泥棒が金を出し合って、小学校を建てて子弟を通学させてるようなもんだ。文明と蒙昧の両極端がこのペンキ塗の青い家の中で出逢って、一方が一方へ影響を及ぼすと、蒙昧がますますぴんぴん蒙昧になってくる。下手に食い違った結果が起るもんだ。と考えながら歩いて来ると、また鬼共が窓から首を出して眺めている。せっかくの考えもこの気味のわるい顔を見上げるとたちまち崩れてしまう。あの顔のなかに安さんのようなのが、たった一つでもあれば、生き返るほど嬉しいだろうに、どれもこれも申し合せたように獰猛の極致を尽している。あれじゃ、どうしたって病院の必要があるはずがないとまで思った。
天気だけは好都合にすっかり晴れた。赤土を劈いたような山の壁へ日が当る。昨日、一昨日の雨を吸込んだ土は、東から差す日を受けて、まだ乾かない。その上照る日をいくらでも吸い込んで行く。景色は晴れがましいうちに湿とりと調子づいて、長屋と長屋の間から、下の方の山を見ると、真蒼な色が笑み割れそうに濃く重なっている。風は全く落ちた。昨夕と今朝とではほとんど十五度以上も違うようである。道傍に、たった一つ蒲公英が咲いている。もったいないほど奇麗な色だ。これも獰猛とはまるで釣り合ない。
病院へ着いた。和土の廊下が地面と擦れ擦れに五六間続いている突き当りに、診察室と云う札が懸って、手前の右手に控所と書いてある。今云った一間幅の廊下を横切って、控所へ這入ると、下はやはり和土で、ベンチが二脚ほど並べてある。小さい硝子窓には受附と楷書で貼りつけてある。自分はこの窓口へ行って、自分の姓名を書いた紙片を出すと、窓の中に腰を掛けていた二十二三の若い男が、その紙片を受取って、ありもしない眉へ八の字を寄せて、むずかしそうにとくと眺めた上、
「こりゃ御前か」
と、さも横風に云った。あまり好い心持ではなかった。何の必要があって、こう自分を軽蔑するんだか不平に堪えない。それで単に、
「ええ」
と出来るだけ愛嬌のない返事をした。受附は、それじゃ、まだ挨拶が足りないと云わんばかりに、しばらくは自分を睨めていたが、こっちもそれっ切り口を結んで立っていたもんだから、
「少し待っていろ」
と、ぴしゃりと硝子戸を締めて出て行った。草履の音がする。あんなにばたばた云わせなくっても好さそうなもんだと思った。
自分はベンチへ腰を掛けた。受附はなかなか帰って来ない。ぼんやりしていると、眼の前にジャンボーが出て来た。金さんがよっしょいよっしょいと担がれて来るところが見える。あれでも病院が必要なのかと思った。何のために薬を盛って、患者を施療するのか、ほとんど意義をなさない。こんな体裁のいい偽善はない。病人はいじめるだけいじめる。ジャンボーは囃したいだけ囃す。その代り医者にかけてやると云うのか。鄭重の至りである。
「おいあっちへ廻れ」
と突然受附の声がした。見ると受附は硝子窓の中に威丈高に突立って、自分を眼下に睥睨している。自分は控所を出た。右へ折れて、廊下伝いに診察場へ上がったら、薬の臭がぷんとした。この臭を嗅ぐと等しく、自分も、もうやがて死ぬんだなと思い出した。死んでここの土になったら不思議なものだ。こう云うのを運命というんだろう。運命の二字は昔から知ってたが、ただ字を知ってるだけで意味は分らなかった。意味は分っても、納得がむずかしかった。西洋人が筍を想像するように定義だけを心得て満足していた。けれども人間の一大事たる死と云う実際と、人間の獣類たる坑夫の住んでいるシキとを結びつけて、二三日前まで不足なく生い立った坊っちゃんを突然宙に釣るして、この二つの間に置いたとすると、坊っちゃんは始めてなるほどと首肯する。運命は不可思議な魔力で可憐な青年を弄ぶもんだと云う事が分る。すると今までただの山であったものが、ただの山でなくなる。ただの土であったものがただの土でなくなる。青いばかりと思った空が、青いだけでは済まなくなる。この病院の、この診察場の、この薬品の、この臭いまでが夢のような不思議になる。元来この椅子に腰を掛けている本人からしてが、何物だかほとんど要領を得ない。本人以外の世界は明瞭に見えるだけで、どんな意味のある世界かさっぱり見当がつかない。自分は、診察場と薬局とをかねたこの一室の椅子に倚って、敷物と、洋卓と、薬瓶と、窓と、窓の外の山とを見廻した。もっとも明瞭な視覚で見廻したが、すべてがただ一幅の画と見えるだけで、その他には何物をも認める事ができなかった。
そこへ戸を開けて、医者があらわれた。その顔を見ると、やっぱり坑夫の類型である。黒のモーニングに縞の洋袴を着て、襟の外へ顎を突き出して、
「御前か、健康診断をして貰うのは」
と云った。この語勢には、馬に対しても、犬に対しても、是非腹の内で云うべきほどの敬意が籠っていた。
「ええ」
と自分は椅子を離れた。
「職業は何だ」
「職業って別に何にもないんです」
「職業がない。じゃ、今まで何をして生きていたのか」
「ただ親の厄介になっていました」
「親の厄介になっていた。親の厄介になって、ごろごろしていたのか」
「まあ、そうです」
「じゃ、ごろつきだな」
自分は答をしなかった。
「裸になれ」
自分は裸になった。医者は聴診器で胸と背中をちょっと視た上、いきなり自分の鼻を撮んだ。
「息をして見ろ」
息が口から出る。医者は口の所へ手をあてがった。
「今度口を塞ぐんだ」
医者は鼻の下へ手をあてた。
「どうでしょう。坑夫になれますか」
「駄目だ」
「どこか悪いですか」
「今書いてやる」
医者は四角な紙片へ、何か書いて抛り出すように自分に渡した。見ると気管支炎とある。
気管支炎と云えば肺病の下地である。肺病になれば助かりようがない。なるほどさっき薬の臭を嗅いで死ぬんだなと虫が知らせたのも無理はない。今度はいよいよ死ぬ事になりそうだ。これから先二三週間もしたら、金さんのようによっしょいよっしょいでジャンボーを見せられて、そのあげくには自分がとうとうジャンボーになって、それから思う存分囃し立てられて、敲き立てられて、――もっとも新参だから囃してくれるものも、敲いてくれるものも、ないかも知れないが――とどの詰りは、――どうなる事か自分にも分らない。それは分らなくってもよろしい。生きて動いている今ですら分らない。ただ世界がのべつ、のっぺらぽうに続いているうちに、あざやかな色が幾通りも並んでるばかりである。坑夫は世の中で、もっとも穢ないものと感じていたが、かように万物を色の変化と見ると、穢ないも穢なくないもある段じゃない。どうでも構わないから、どうとも勝手にするがいい、自分が懐手をしていたら運命が何とか始末をつけてくれるだろう。死んでもいい、生きてもいい。華厳の瀑などへ行くのは面倒になった。東京へ帰る? 何の必要があって帰る。どうせ二三度咳をせくうちの命だ。ここまで運命が吹きつけてくれたもんだから、運命に吹き払われるまでは、ここにいるのが、一番骨が折れなくって、一番便利で、一番順当な訳だ。ここにいて、ただ堕落の修業さえすれば、死ぬまでは持てるだろう。肺病患者にほかの修業はむずかしいかも知れないが、堕落の修業なら――ふと往きに眼についた蒲公英に出逢った。さっきはもったいないほど美しい色だと思ったが、今見ると何ともない。なぜこれが美しかったんだろうと、しばらく立ち留まって、見ていたが、やっぱり美しくない。それからまたあるき出した。だらだら坂を登ると、自然と顔が仰向になる。すると例の通り長屋から、坑夫が頬杖を突いて、自分を見下している。さっきまではあれほど厭に見えた顔がまるで土細工の人形の首のように思われる。醜くも、怖くも、憎らしくもない。ただの顔である。日本一の美人の顔がただの顔であるごとく、坑夫の顔もただの顔である。そう云う自分も骨と肉で出来たただの人間である。意味も何もない。
自分はこう云う状態で、無人の境を行くような心持で、親方の家までやって来た。案内を頼むと、うちから十五六の娘が、がらりと障子をあけて出た。こう云う娘がこんな所にいようはずがないんだから、平生ならはっと驚く訳だが、この時はまるで何の感じもなかった。ただ器械のように挨拶をすると、娘は片手を障子へ掛けたまま、奥を振り向いて、
「御父さん。御客」
と云った。自分はこの時、これが飯場頭の娘だなと合点したが、ただ合点したまでで、娘がまだそこに立っているのに、娘の事は忘れてしまった。ところへ親方が出て来た。
「どうしたい」
「行って来ました」
「健康診断を貰って来たかい。どれ」
自分は右の手に握っていた診断書を、つい忘れて、おやどこへやったろうかと、始めて気がついた。
「持ってるじゃないか」
と親方が云う。なるほど持っていたから、皺を伸して親方に渡した。
「気管支炎。病気じゃないか」
「ええ駄目です」
「そりゃ困ったな。どうするい」
「やっぱり置いて下さい」
「そいつあ、無理じゃないか」
「ですが、もう帰れないんだから、どうか置いて下さい。小使でも、掃除番でもいいですから。何でもしますから」
「何でもするったって、病気じゃ仕方がないじゃないか。困ったな。しかしせっかくだから、まあ考えてみよう。明日までには大概様子が分るだろうからまた来て見るがいい」
自分は石のようになって、飯場へ帰って来た。
その晩は平気で囲炉裏の側に胡坐をかいていた。坑夫共が何と云っても相手にしなかった。相手にする料簡も出なかった。いくら騒いでも、愚弄っても、よしんば踏んだり蹴たりしても、彼らは自分と共に一枚の板に彫りつけられた一団の像のように思われた。寝るときは布団は敷かなかった。やはり囲炉裏の傍に胡坐をかいていた。みんな寝着いてから、自分もその場へ仮寝をした。囲炉裏へ炭を継ぐものがないので、火の気がだんだん弱くなって、寒さがしだいに増して来たら、眼が覚めた。襟の所がぞくぞくする。それから起きて表へ出て空を見たら、星がいっぱいあった。あの星は何しに、あんなに光ってるのだろうと思って、また内へ這入った。金さんは相変らず平たくなって寝ている。金さんはいつジャンボーになるんだろう。自分と金さんとどっちが早く死ぬだろう。安さんは六年このシキに這入ってると聞いたが、この先何年鉱を敲くだろう。やっぱりしまいには金さんのように平たくなって、飯場の片隅に寝るんだろう。そうして死ぬだろう。――自分は火のない囲炉裏の傍に坐って、夜明まで考えつづけていた。その考えはあとから、あとから、仕切りなしに出て来たが、いずれも干枯びていた。涙も、情も、色も香もなかった。怖い事も、恐ろしい事も、未練も、心残りもなかった。
夜が明けてから例のごとく飯を済まして、親方の所へ行った。親方は元気のいい声をして、
「来たか、ちょうど好い口が出来た。実はあれからいろいろ探したがどうも思わしいところがないんでね、――少し困ったんだが。とうとう旨い口を見附けた。飯場の帳附だがね。こりゃ無ければ、なくっても済む。現に今までは婆さんがやってたくらいだが、せっかくの御頼みだから。どうだねそれならどうか、おれの方で周旋ができようと思うが」
「はあありがたいです。何でもやります。帳附と云うと、どんな事をするんですか」
「なあに訳はない。ただ帳面をつけるだけさ。飯場にああ多勢いる奴が、やや草鞋だ、やや豆だ、ヒジキだって、毎日いろいろなものを買うからね。そいつを一々帳面へ書き込んどいて貰やあ好いんだ。なに品物は婆さんが渡すから、ただ誰が何をいくら取ったと云う事が分るようにして置いてくれればそれで結構だ。そうするとこっちでその帳面を見て勘定日に差し引いて給金を渡すようにする。――なに力業じゃないから、誰でもできる仕事だが、知っての通りみんな無筆の寄合だからね。君がやってくれるとこっちも大変便利だが、どうだい帳附は」
「結構です、やりましょう」
「給金は少くって、まことに御気の毒だ。月に四円だが。――食料を別にして」
「それでたくさんです」
と答えた。しかし別段に嬉しいとも思わなかった。ようやく安心したとまでは固り行かなかった。自分の鉱山における地位はこれでやっときまった。
翌日から自分は台所の片隅に陣取って、かたのごとく帳附を始めた。すると今まであのくらい人を軽蔑していた坑夫の態度ががらりと変って、かえって向うから御世辞を取るようになった。自分もさっそく堕落の稽古を始めた。南京米も食った。南京虫にも食われた。町からは毎日毎日ポン引が椋鳥を引張って来る。子供も毎日連れられてくる。自分は四円の月給のうちで、菓子を買っては子供にやった。しかしその後東京へ帰ろうと思ってからは断然やめにした。自分はこの帳附を五箇月間無事に勤めた。そうして東京へ帰った。――自分が坑夫についての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。
底本:「夏目漱石全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年1月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年4月13日公開
2004年2月26日修正
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