Marco の本棚

~紙の削減~ 著作権切れの名著

夏目漱石『坑夫』3

 

 話すとこうなる。――いよいよ死んじまえと思って、体を心持あとへ引いて、手のにぎりをゆるめかけた時に、どうせ死ぬなら、ここで死んだってえない。待て待て、出てから華厳けごんたきへ行けと云う号令――号令は変だが、全く号令のようなものが頭の中に響き渡った。ゆるめかけた手が自然としまった。曇った眼が、急に明かるくなった。カンテラが燃えている。仰向あおむくと、泥でれた梯子段が、暗い中まで続いている。是非共登らなければならない。もし途中で挫折ざせつすれば犬死になる。暗いあなで、誰も人のいない所で、日の目も見ないで、あらがねと同じようにころげ落ちて、それっきり忘れられるのは――案内の初さんにさえ忘れられるのは――よし見つかっても半獣半人の坑夫共に軽蔑けいべつされるのは無念である。是非共登り切っちまわなければならない。カンテラは燃えている。梯子は続いている。梯子の先には坑が続いている。坑の先には太陽が照り渡っている。広い野がある、高い山がある。野と山を越して行けば華厳の瀑がある。――どうあっても登らなければならない。
 左の手を頭の上まで伸ばした。ぬらつく段木を指のあとのつくほど強く握った。濡れた腰をうんと立てた。同時に右の足を一尺上げた。カンテラは暗い中をたてに動いて行く。坑は層一層そういっそうと明かるくなる。踏みてて去る段々はしだいしだいに暗い中に落ちて行く。吐く息が黒い壁へ当る。熱い息である。そうして時々は白く見えた。次には口を結んだ。すると鼻の奥が鳴った。梯子はまだ尽きない。懸崖けんがいからは水が垂れる。ひらりとカンテラひるがえすと、がけおもてかすめて弓形にじいと、消えかかって、手の運動の止まる所へ落ちついた時に、また真直に油煙を立てる。またひるがえす。は斜めに動く。梯子の通る一尺幅をはずれて、がんがらがんの壁が眼にうつる。ぞっとする。眼がくらむ。眼をねむって、登る。灯も見えない、壁も見えない。ただ暗い。手と足が動いている。動く手も動く足も見えない。手障足障てざわりあしざわりだけで生きて行く。生きて登って行く。生きると云うのは登る事で、登ると云うのは生きる事であった。それでも――梯子はまだある。
 それから先はほとんど夢中だ。自分で登ったのか、天佑てんゆうで登ったのかほとんど判然しない。ただ登り切って、もう一段も握る梯子がないと云う事をさとった時に、坑の中へぴたりと坐った。
「どうした。上がって来たか。途中で死にゃしねえかと思って、――あんまり長えから。見に行こうかと思ったが、一人じゃ気味がわるいからな。だけども、好く上がって来たな。えらいや」
と待ちかねて、もじもじしていた初さんが大いに喜んでくれた。何でも梯子はしごの上でよっぽど心配していたらしい。自分はただ、
「少し気分がるかったから途中で休んでいました」
と答えた。
「気分が悪い? そいつあ困ったろう。途中って、梯子の途中か」
「ええ、まあそうです」
「ふうん。じゃ明日あすは作業もできめえ」
 この一言いちごんを聞いた時、自分はくそでもくらえと思った。誰が土竜もぐらもちの真似なんかするものかと思った。これでも美しい女にれられたんだと思った。あなを出れば、すぐ華厳けごんたきまで行くんだと思った。そうして立派に死ぬんだと思った。最後に半時もこんなけだものを相手にしていられるものかと思った。そこで、自分は初さんに向って、簡単に、
「よければ上がりましょう」
と云った。初さんは怪訝けげんな顔をした。
「上がる? 元気だなあ」
 自分は「馬鹿にするねえ、この明盲目あきめくらめ。人を見損みそくなやがって」と云いたかった。しかし口だけは叮嚀ていねいに、一言ひとこと
「ええ」
と返事をして置いた。初さんはまだぐずぐずしている。驚いたと云うよりも、やっぱり馬鹿にしたぐずつきかたである。
「おい大丈夫かい。冗談じょうだんじゃねえ。顔色が悪いぜ」
「じゃ僕が先へ行きましょう」
と自分はむっとして歩き出した。
「いけねえ、いけねえ。先へ行っちゃいけねえ、あとからいて来ねえ」
「そうですか」
当前あたりめえだあな。人つけ。誰が案内をざりにして、先へ行く奴があるかい、何でい」
と初さんは、自分を払い退けないばかりにして、先へ出た。出たと思うと急に速力を増した。腰を折ったり、四つにったり、背中をよこちょにしたり、頭だけ曲げたり、あな恰好かっこうしだいでいろいろに変化する。そうして非常に急ぐ。まるで土の中で生れて、銅脈の奥で教育を受けた人間のようである。畜生ちゅうぱらで急ぎやがるなと、こっちも負けない気で歩き出したが、そこへ行くと、いくら気ばかり張っていても駄目だ。五つ六つ角を曲って、下りたりあがったり、がたつかせているうちに、初さんは見えなくなった。と思うと、何とかして、何とか、てててててと云う歌をうたう。初さんの姿が見えないのに、初さんの声だけは、坑の四方へ反響して、こもったように打ち返してくる。意地の悪い野郎だと思った。始めのうちこそ、追っついてやるから今に見ていろと云ういきおいで、根限こんかぎり這ったりかがんだりしたが、残念な事には初さんの歌がだんだん遠くへ行ってしまう。そこで自分は追いつく事はひとまず断念して、初さんのてててててを道案内にして進む事にした。当分はそれで大概の見当けんとうがついたが、しまいにはそのててててても怪しくなって、とうとうまるで聞えなくなった時には、さすがに茫然ぼうぜんとした。一本道なら初さんなんどを頼りにしなくっても、自力じりきで日の当る所まで歩いて出て見せるが、何しろ、長年ながねん掘荒したあなだから、まるで土蜘蛛つちぐもの根拠地みたようにいろいろな穴が、とんでもない所にいている。滅多めったな穴へ這入はいるとまた腰きり水につかる所か、でなければ、例のさかさの桟道さんどうへ出そうで容易に踏み込めない。
 そこで自分は暗い中に立ち留って、カンテラを見詰めながら考えた。往きには八番坑まで下りて行ったんだから帰りには是非共電車の通る所まで登らなければならない。どんな穴でものぼりならば好いとする。その代り下りなら引返して、また出直す事にする。そうして迂路うろついていたら、どこかの作事場さくじばへ出るだろう。出たら坑夫に聞くとしよう。こう決心をして、東西南北の判然しない所を好い加減にまごついていた。非常に気がいて息が切れたが、めちゃめちゃに歩いたために足の冷たいのだけはなおった。しかしなかなか出られない。何だか同じ路を往ったり来たりするような案排あんばいで、あんまり、もどかしものだから、壁へ頭をぶつけて割っちまいたくなった。どっちを割るんだと云えば無論頭を割るんだが、幾分か壁の方も割れるだろうくらいの疳癪かんしゃくが起った。どうも歩けば歩くほど天井てんじょうが邪魔になる、左右の壁が邪魔になる。草鞋わらじの底で踏む段々が邪魔になる。坑総体が自分を閉じ込めて、いつまで立っても出してくれないのがもっとも邪魔になる。この邪魔ものの一局部へ頭をたたきつけて、せめてひびでも入らしてやろうと――やらないまでも時々思うのは、早く華厳けごんたきへ行きたいからであった。そうこうしているうちに、向うから一人の掘子ほりこが来た。ばらのあかがねスノコへ運ぶ途中と見えて例のいてよちよちカンテラりながら近づいた。この灯を見つけた時は、嬉しくって胸がどきりと飛び上がった。もう大丈夫と勇んで近寄って行くと、近寄るがものはない、向うでもこっちへ歩いて来る。二つのカンテラが一間ばかりの距離に近寄った時、待ち受けたように、自分は掘子の顔を見た。するとその顔が非常なあおぞうであった。この坑のなかですら、只事ただごととは受取れない蒼ん蔵である。あかるみへ出して、青い空の下で見たら、大変な蒼ん蔵にちがいない。それで口をくのがいやになった。こんな奴の癖に人に調戯からかったり、なぶったり、はずかしめたりするのかと思ったら、なおなお道を聞くのがいやになった。死んだって一人で出て見せると云う気になった。手前共に口を聞くような安っぽい男じゃないと、腹の中でたしかに申し渡してれ違った。向うは何にも知らないから、これは無論だまって擦れ違った。行く先は暗くなった。カンテラは一つになった。気はますます焦慮いらって来た。けれどもなかなか出ない。ただ道はどこまでもある。右にも左にもある。自分は右にも這入った、また左にも這入った、また真直にも歩いて見た。しかし出られない。いよいよ出られないのかと、少しく途方に暮れている鼻の先で、かあんかあんと鳴り出した。五六歩で突き当って、折れ込むと、小さな作事場があって、一人の坑夫がしきりにつちを振り上げてのみたたいている。敲くたんびにあらがねが壁から落ちて来る。そのそばに俵がある。これはさっきスノコへ投げ込んだ俵と同じ大きさで、もういっぱい詰っている。掘子ほりこが来てかついで行くばかりだ。自分は今度こそこいつに聞いてやろうと思った。が肝心かんじんの本人が一生懸命にかあんかあん鳴らしている。おまけに顔もよく見えない。ちょうどいいから少し休んで行こうと云う気が起った。幸い俵がある。この上へ尻をおろせば、持って来いの腰掛になる。自分はどさっとアテシコを俵の上に落した。すると突然かあんかあんがやんだ。坑夫の影が急に長く高くなった。のみを持ったままである。
「何をしやがるんでい」
 鋭い声が穴いっぱいに響いた。自分の耳にはたたき込まれるように響いた。高い影は大股に歩いて来る。
 見ると、足の長い、胸の張った、体格のたくましい男であった。顔は背の割に小さい。その輪廓りんかくがやや判然する所まで来て、男は留まった。そうして自分を見下みおろした。口を結んでいる。二重瞼ふたえまぶたの大きな眼を見張っている。鼻筋が真直まっすぐに通っている。色が赭黒あかぐろい。ただの坑夫ではない。突然として云った。
「貴様は新前しんめえだな」
「そうです」
 自分の腰はこの時すでに俵を離れていた。何となく、向うから近づいてくる坑夫が恐ろしかった。今まで一万余人の坑夫を畜生のように軽蔑けいべつしていたのに、――誓って死んでしまおうと覚悟をしていたのに、――大股に歩いて来た坑夫がたちまち恐ろしくなった。しかし、
「何でこんな所を迷子まごついてるんだ」
と聞き返された時には、やや安心した。自分の様子を見て、故意に俵の上へ腰をおろしたんでないと見極みきわめた語調である。
「実は昨夕ゆうべ飯場はんばへ着いて、様子を見にあな這入はいったばかりです」
「一人でか」
「いいえ、飯場頭はんばがしらから人をつけてくれたんですが……」
「そうだろう、一人で這入れる所じゃねえ。どうしたその案内は」
「先へ出ちまいました」
「先へ出た? 手前てめえを置き去りにしてか」
「まあ、そうです」
ふてえ野郎だ。よしよし今におれが送り出してやるから待ってろ」
と云ったなり、またのみつちをかあんかあん鳴らし始めた。自分は命令の通り待っていた。この男にったら、もう一人で出る気がなくなった。死んでも一人で出て見せると威張った決心が、急にどこへか行ってしまった。自分はこの変化に気がついていた。それでも別に恥かしいとも思わなかった。人に公言した事でないから構わないと思った。その人に公言したために、やらないでも済む事、やってはならない事を毎度やった。人に公言すると、しないのとは大変な違があるもんだ。その内かあんかあんがやんだ。坑夫はまた自分の前まで来て、胡坐あぐらをかきながら、
「ちょっと待ちねえ。一服やるから」
と、煙草入たばこいれを取り出した。茶色の、皮か紙か判然しないもので、股引ももひきに差し込んである上から筒袖つつっぽうかぶさっていた。坑夫はうまそうに腹の底まで吸ったけむを、鼻から吹き出しているに、短い羅宇らおの中途を、煙草入の筒でぽんとはたいた。小さい火球ひだま雁首がんくびから勢いよく飛び出したと思ったら、坑夫の草鞋わらじ爪先つまさきへ落ちてじゅうと消えた。坑夫はからになった煙管きせるをぷっと吹く。羅宇の中にこもった煙が、一度に雁首から出た。坑夫はその時始めて口をいた。
御前おめえはどこだ。こんな所へ全体何しに来た。身体からだつきは、すらりとしているようだが。今まで働いた事はねえんだろう。どうして来た」
「実は働いた事はないんです。が少し事情があって、来たんです。……」
とまでは云ったが、坑夫には愛想が尽きたから、もう、帰るんだとは云わなかった。死ぬんだとはなおさら云わなかった。しかし今までのように、腹のなかで畜生あつかいにして、口先ばかり叮嚀ていねいにしていたのとはだいぶんおもむきが違う。自分はただ洗いざらい自分の思わくを話してしまわないだけで、話しただけは真面目に話したんである。すこしも裏表はない。腹から叮嚀ていねいに答えた。坑夫はしばらくの間黙って雁首をながめていた。それからまた煙草を詰めた。煙が鼻から出だした真最中に口をひらいた。
 自分がその時この坑夫の言葉を聞いて、第一に驚いたのは、彼の教育である。教育から生ずる、上品な感情である。見識である。熱誠である。最後に彼の使った漢語である。――れは坑夫などの夢にも知りようはずがない漢語を安々と、あたかも家庭の間で昨日きのうまで常住坐臥じょうじゅうざが使っていたかのごとく、使った。自分はその時の有様をいまだに眼の前に浮べる事がある。彼れは大きな眼を見張ったなり、自分の顔を熟視したまま、心持くびを前の方に出して、胡坐のひざへ片手をぎゃくに突いて、左の肩を少しそびやかして、右の指で煙管を握って、薄いくちびるの間から奇麗きれいな歯を時々あらわして、――こんな事を云った。句の順序や、単語の使い方は、たしかな記憶をそのまま写したものである。ただ語声だけはどうしようもない。――
「亀の甲より年の功と云うことがあるだろう。こんないやしい商売はしているが、まあ年長者の云う事だから、参考に聞くがいい。青年はじょうの時代だ。おれもおぼえがある。情の時代には失敗するもんだ。君もそうだろう。おれもそうだ。誰でもそうにきまってる。だから、察している。君の事情とおれの事情とは、どのくらい違うか知らないが、何しろ察している。とがめやしない。同情する。深い事故わけもあるだろう。聞いて相談になれる身体からだなら聞きもするが、シキから出られない人間じゃ聞いたって、仕方なし、君も話してくれない方がいい。おれも……」
と云い掛けた時、自分はこの男の眼つきが多少異様にかがやいていたと云う事に気がついた。何だか大変感じている。これが当人の云うごとくシキを出られないためか、または今云い掛けたおれもの後へ出て来る話のためか、ちょっと分りにくいが、何しろ妙な眼だった。しかもこの眼が鋭く自分をも見詰めている。そうしてその鋭いうちに、懐旧かいきゅうと云うのか、沈吟ちんぎんと云うのか、何だか、人を引きつけるなつかしみがあった。この黒いあなの中で、人気ひとけはこの坑夫だけで、この坑夫は今や眼だけである。自分の精神の全部はたちまちこの眼球めだまに吸いつけられた。そうして彼の云う事を、とっくり聞いた。彼はおれもを二遍繰り返した。
「おれも、元は学校へ行った。中等以上の教育を受けた事もある。ところが二十三の時に、ある女と親しくなって――詳しい話はしないが、それがもとで容易ならん罪を犯した。罪を犯して気がついて見ると、もう社会にれられない身体からだになっていた。もとより酔興すいきょうでした事じゃない、やむを得ない事情から、やむを得ない罪を犯したんだが、社会は冷刻なものだ。内部の罪はいくらでも許すが、表面の罪はけっして見逃みのがさない。おれは正しい人間だ、曲った事がきらいだから、つまりは罪を犯すようにもなったんだが、さて犯した以上は、どうする事もできない。学問もてなければならない。功名もなげうたなければならない。万事が駄目だ。口惜くやしいけれども仕方がない。その上制裁の手にとらえられなければならない。(故意か偶然か、彼はとくに制裁の手と云う言語を使用した。)しかし自分が悪いおぼえがないのに、むやみに罪を着るなあ、どうしてもおれの性質としてできない。そこで突っ走った。逃げられるだけ逃げて、ここまで来て、とうとうシキの中へもぐり込んだ。それから六年というもの、ついに日光ひのめを見た事がない。毎日毎日坑の中でかんかんたたいているばかりだ。丸六年敲いた。来年になればもうシキを出たって構わない、七年目だからな。しかし出ない、また出られない。制裁の手にはつらまらないが、出ない。こうなりゃ出たって仕方がない。娑婆しゃばへ帰れたって、娑婆でした所業は消えやしない。昔は今でも腹ん中にある。なあ君昔は今でも腹ん中にあるだろう。君はどうだ……」
と途中で、いきなり自分に質問を掛けた。
 自分はやぶからぼうの質問に、用意の返事を持ち合せなかったから、はっと思った。自分の腹ん中にあるのは、むかしどころではない。一二年前から一昨日おとといまで持ち越した現在に等しい過去である。自分はいっその事自分の心事をこの男の前に打ち明けてしまおうかと思った。すると相手は、さも打ち明けさせまいと自分をさえぎるごとくに、話の続きを始めた。
「六年ここに住んでいるうちに人間の汚ないところは大抵見悉みつくした。でも出る気にならない。いくら腹が立っても、いくら嘔吐おうともよおしそうでも、出る気にならない。しかし社会には、――日の当る社会には――ここよりまだ苦しい所がある。それを思うと、辛抱も出来る。ただ暗くってせばい所だと思えばそれで済む。身体も今じゃ銅臭あかがねくさくなって、一日もカンテラの油をがなくっちゃいられなくなった。しかし――しかしそりゃおれの事だ。君の事じゃない。君がそうなっちゃ大変だ。生きてる人間が銅臭くなっちゃ大変だ。いや、どんな決心でどんな目的を持って来ても駄目だ。決心も目的もたった二三日にさんちで突ッつき殺されてしまう。それが気の毒だ。いかにも可哀想かわいそうだ。理想も何にもないのみつちよりほかに使うすべを知らない野郎なら、それで結構だが。しかし君のような――君は学校へ行ったろう。――どこへ行った。――ええ? まあどこでもいい。それに若いよ。シキほうり込まれるには若過ぎるよ。ここは人間のくずが抛り込まれる所だ。全く人間の墓所はかしょだ。生きてほうぶられる所だ。一度んだが最後、どんな立派な人間でも、出られっこのない陥穽おとしあなだ。そんな事とは知らずに、大方ポンびきの言いなりしだいになって、引張られて来たんだろう。それを君のために悲しむんだ。人一人を堕落させるのは大事件だ。殺しちまう方がまだ罪が浅い。堕落した奴はそれだけ害をする。他人に迷惑を掛ける。――実はおれもその一人いちにんだ。が、こうなっちゃ堕落しているよりほかに道はない。いくら泣いたって、くやんだって堕落しているよりほかに道はない。だから君は今のうち早く帰るがいい。君が堕落すれば、君のためにならないばかりじゃない。――君は親があるか……」
 自分はただ一言ひとことあると答えた。
「あればなおさらだ。それから君は日本人だろう……」
 自分は黙っていた。
「日本人なら、日本のためになるような職業についたらよかろう。学問のあるものが坑夫になるのは日本の損だ。だから早く帰るがよかろう。東京なら東京へ帰るさ。そうして正当な――君に適当な――日本の損にならないような事をやるさ。何と云ってもここはいけない。旅費がなければ、おれが出してやる。だから帰れ。分ったろう。おれは山中組にいる。山中組へ来てやすさんと聞きゃあすぐ分る。尋ねて来るが好い。旅費はどうでも都合してやる」
 安さんの言葉はこれで終った。坑夫の数は一万人と聞いていた。その一万人はことごとく理非人情りひにんじょうを解しない畜類の発達した化物とのみ思い詰めたこの時、この人にったのは全くの小説である。夏の土用に雪が降ったよりも、あなの中で安さんに説諭された方が、よほどの奇蹟きせきのように思われた。大晦日おおみそかを越すとお正月が来るくらいは承知していたが、地獄で仏と云うことわざも記憶していたが、きわまれば通ずという熟語も習った事があるが、困った時は誰か来て助けてくれそうなものだくらいに思って、芝居気を起しては困っていた事もたびたびあるが、――この時はまるで違う。真から一万人を畜生と思い込んで、その畜生がまたことごとく自分の敵だと考え詰めた最強度の断案を、忘るべからざる痛忿つうふんほのおで、胸に焼きつけた折柄だから、なおさらこの安さんに驚かされた。同時に安さんの訓戒が、自分の初志を一度にひるがえし得るほどの力をもって、自分の耳にこたえた。
 しばらくは二人して黙っていた。安さんは一応云うだけの事を云ってしまったんだから、口をかないはずであるが、自分は先方に対して、何とか返事をする義務がある。義務をかいては安さんに済まない。心底しんそこから感謝の意をひょうした上で、自分の考えも少し聞いてもらいたいのは山々であったが、何分にも鼻の奥が詰って不自由である。しかもいて言葉を出そうとすると、口へ出ないで鼻へ抜けそうになる。それを我慢すると、唇の両端りょうはじがむずむずして、小鼻がぴくついて来る。やがて鼻と口をかれた感動が、出端ではを失って、眼の中にたまって来た。まつげが重くなる。まぶたが熱くなる。おおいに困った。安さんも妙な顔をしている。二人ともばつが悪くなって、差し向いで胡坐あぐらをかいたまま、黙っていた。その時次の作事場さくじばあらがねたたく音がかあんかあん鳴った。今考えると、自分と安さんが黙然もくねんと顔を見合せていた場所は、地面の下何百尺くらいな深さだか、それを正確に知って置きたかった。都会でも、こんな奇遇は少い。銅山やまの中では有ろうはずがない。日の照らないあなの底で、世から、人から、歴史から、太陽からも、忘れられた二人が、ありがたいおしえを垂れて、たっとい涙を流した舞台があろうとは、胡坐をかいて、黙然と互に顔を見守っていた本人よりほかに知るものはあるまい。
 安さんはまた煙草たばこみ出した。ぷかりぷかりとけむが出た。その煙が濃く出ては暗がりに消え、濃く出ては暗がりに消える間に、自分はようやく声が自由になった。
「ありがたいです。なるほどあなたのおっしゃる通り人間のいる所じゃないでしょう。僕もあなたにうまでは、今日きょう限り銅山やまを出ようかと思ってたんです。……」
 さすが山を出て死ぬつもりだったとは云いかねたから、ここでちょっと句を切ったら、
「そりゃなおさらだ。さっそく帰るがいい」
と、安さんが勢いをつけてくれた。自分はやっぱり黙っていた。すると、
「だから旅費はおれがこしらえてやるから」
と云う。自分はさっきから旅費旅費と聞かされるのを、ただ善意に解釈していたが、さればと云ってごうも貰う気は起らなかった。昨日きのう飯場頭はんばがしら合力ごうりょくを断った時の料簡りょうけんと同じかと云うと、それとも違う。昨日は是非貰いたかった、地平じびたへ手を突いてまで貰いたかった。しかし草鞋銭わらじせんを貰うよりも、坑夫になる方が得だと勘定したから、手を出して頂きたいところを、無理に断ったんである。安さんの旅費は始めから貰いたくない。好意をむなしくすると云う点から見れば、貰わなければ済まないし、坑夫をやめるとすれば貰う方が便利だが、それにもかかわらず貰いたくなかった。これは今から考えると、全く向うの人格に対して、貰っては恥ずべき事だ、こちらの人格が下がるという念からきざしたものらしい。先方がいかにも立派だから、こっちも出来るだけ立派にしたい、立派にしなければ、自分の体面をそこなおそれがある。向うの好意をけて、相当の満足を先方に与えるのは、こちらもよろこばしいが、受けるべき理由がないのに、みだりに自己の利得のみを標準めやすに置くのは、乞食と同程度の人間である。自分はこの尊敬すべき安さんの前で、自分は乞食である、乞食以上の人物でないと云う事実上の証明を与えるに忍びなかった。年が若いと馬鹿な代りに存外奇麗きれいなものである。自分は
「旅費は頂きません」
と断った。
 この時安さんは、煙草を二三ぶくふかして、煙管きせるつつへ入れかけていたが、自分の顔をひょいと見て
「こりゃ失敬した」
と云ったんで、自分は非常に気の毒になった。もしやるから貰って置けとでも強いられたならきっと受けたに違ない。その気をつけて、人が金を貰うところを見ていると、始めは一応辞退して、後では大抵ふところへ入れるようだが、これは全くこの心理状態の発達した形式に過ぎないんだろうと思う。幸い安さんがえらい男で、「こりゃ失敬した」と云ってくれたんで、自分はこの形式におちいらずに済んだのはありがたかった。
 安さんはすぐさま旅費の件を撤回して
「だが東京へは帰るだろうね」
と聞き直した。自分は、死ぬ決心が少々にぶった際だから、ことによれば、旅費だけでも溜めた上、帰る事にしようと云う腹もあったんで、
「よく考えて見ましょう。いずれそのうちまた御相談に参りますから」
と答えた。
「そうか。それじゃ、とにかく路の分る所まで送ってやろう」
煙草入たばこいれ股引ももひきへ差し込んで、上から筒服つつっぽうの胴をかぶせた。自分はカンテラげて腰を上げた。安さんが先へ立つ。あなは存外登り安かった。例の段々を四五遍通り抜けて、二度ほど四つんいになったら、かなり天井てんじょうの高い、真直まっすぐに立って歩けるような路へ出た。それをだらだらと廻り込んで、右の方へ登り詰めると、突然第一見張所の手前へ出た。安さんは電気灯の見える所で留った。
「じゃ、これで別れよう。あれが見張所だ。あすこの前を右へついて上がると、軌道レールの敷いてある所へ出る。それから先は一本道だ。おれはまだ時間が早いから、もう少し働いてからでなくっちゃあ出られない。晩には帰る。五時過ならいるから、暇があったら来るがいい。気をつけて行きたまえ。さようなら」
 安さんの影はたちまち暗い中へ這入はいった。振り向いて、一口ひとくち礼を云った時は、もうカンテラが角を曲っていた。自分は一人でシキの入口を出た。ふらふら長屋まで帰って来る。途中でいろいろ考えた。あの安さんと云う男が、順当に社会の中で伸びて行ったら、今頃は何に成っているか知らないが、どうしたって坑夫より出世しているに違ない。社会が安さんを殺したのか、安さんが社会に対して済まない事をしたのか――あんな男らしい、すっきりした人が、そうむやみに乱暴を働く訳がないから、ことによると、安さんが悪いんでなくって、社会が悪いのかも知れない。自分は若年じゃくねんであったから、社会とはどんなものか、その当時明瞭めいりょうに分らなかったが、何しろ、安さんを追い出すような社会だからろくなもんじゃなかろうと考えた。安さんを贔屓ひいきにするせいか、どうも安さんが逃げなければならない罪を犯したとは思われない。社会の方で安さんを殺したとしてしまわなければ気が済まない。その癖今云う通り社会とは何者だか要領を得ない。ただ人間だと思っていた。その人間がなぜ安さんのような好い人を殺したのかなおさら分らなかった。だから社会が悪いんだと断定はして見たが、いっこう社会が憎らしくならなかった。ただ安さんが可哀想かわいそうであった。できるなら自分と代ってやりたかった。自分は自分の勝手で、自分を殺しにここまで来たんである。いやになれば帰っても差支さしつかえない。安さんは人間から殺されて、仕方なしにここに生きているんである。帰ろうたって、帰る所はない。どうしても安さんの方が気の毒だ。
 安さんは堕落したと云った。高等教育を受けたものが坑夫になったんだから、なるほど堕落に違ない。けれどもその堕落がただ身分の堕落ばかりでなくって、品性の堕落も意味しているようだから痛ましい。安さんも達磨だるまに金をぎ込むのかしら、あなの中で一六勝負いちろくしょうぶをやるのかしら、ジャンボーを病人に見せて調戯からかうのかしら、女房を抵当に――まさか、そんな事もあるまい。昨日きのう着き立ての自分を見て愚弄ぐろうしないもののないうちで、安さんだけは暗い穴の底ながら、十分自分の人格を認めてくれた。安さんは坑夫の仕事はしているが、しんまでの坑夫じゃない。それでも堕落したと云った。しかもこの堕落から生涯しょうがい出る事ができないと云った。堕落の底に死んできてるんだと云った。それほど堕落したと自覚していながら、生きて働いている。生きてかんかんたたいている。生きて――自分を救おうとしている。安さんが生きてる以上は自分も死んではならない。死ぬのは弱い。……
 こう決心をして、何でも構わないから、ひとまず坑夫になった上として、できるだけ急ぎ足で帰って来ると、長屋の半丁ばかり手前に初さんが石へ腰を掛けて待っている。雨はんだ。空はまだ曇っているが、れる気遣きづかいはない。山から風が吹いて来る。寒くても、世界の明かるいのが、非常にうれしい。自分が嬉しさの余り、疲れた足をりながら、いそいそ近づいてくると、初さんは奇怪けげんな顔をして、
「やあ出て来たな。よくみちが分ったな」
と云った。自分が案内につけられながら、ひとを置き去りにして、何とかして何とか、てててててと云ううたをうたって、大いにじらして置いて、他が大迷おおまごつきに、まごついて、穴のかどへ頭をぶっつけて割って見ようとまで思ったあげく、やっとの事で安さんの御情おなさけで出て来れば、「よく路が分ったな」と空とぼけている。その癖親方がこわいものだから、途中で待ち合せて、いっしょに連れて帰ろうと云う目算もくろみである。自分は石へ腰を掛けて薄笑いをしているこの案内の頭の上へ唾液つばきを吐きかけてやろうかと思った。しかし自分は死ぬのを断念したばかりである。当分はここにとどまらなくっちゃならない身体からだである。唾液を吐きかければ、喧嘩けんかになるだけである。喧嘩をすれば負けるだけである。負けた上にスノコの中へぶちこまれてはせっかく死ぬのを断念した甲斐かいがない。そこで、こう云う答をした。
「どうか、こうか出て来ました」
 すると初さんはなおさら不思議な顔をして、
「へえ。感心だね。一人で出て来たのか」
と聞いた。その時自分は年の割にはうまくやった。うまくやったと云うくらいだから、ただ自分の損にならないようにと云うだけで、それより以外にめる価値ねうちのある所作しょさじゃないが、とにかく十九にしては、なかなか複雑な曲者くせものだと思う。と云うのは、こう聞かれた時に、安さんの名前がつい咽喉のどの先まで出たんである。ところをとうとう云わずにしまったのが自慢なのだ。随分くだらない自慢だが訳を話せば、こんな料簡りょうけんであった。山中組の安さんは勢力のある坑夫に違ない。この安さんがわざわざ第一見張所のそばまで見ず知らずの自分を親切に連れて来てくれたと云う事が知れ渡れば、この案内者は面目を失うにきまっている。責任のある自分が、責任をほうり出して、先へあなを飛び出してしまったと分る以上は――しかもそれが悪意から出たと明瞭めいりょう証拠しょうこだてられる以上は、こいつは親方に対して済ましちゃいられない。となると後できっとかたきを打つだろう。無責任が露見ばれるのは痛快だが――自分はけっして寛大の念に制せられたなんて耶蘇教流ヤソきょうりゅううそはつかない。――そこまでは痛快だが、敵打かたきうちおおいに迷惑する。実のところ自分はこの迷惑の念に制せられた。それで、
「ええ、いろいろ路を聞いて出て来ました」
とおとなしい返事をして置いた。
 初さんは半分失望したような、半分安心したような顔つきをしたが、やがて石から腰を上げて、
「親方の所へ行こう」
とまた歩き出した。自分は黙っていて行った。昨日きのう親方にったのは飯場はんばだが、親方の住んでる所は別にある。長屋の横を半丁ほどのぼると、石垣で二方のかどを取ってならした地面の上に二階建がある。家はさほど見苦しくもないが、家のほかには木も庭もない。相変らず二階の窓から悪魔が首を出している。入口まで来て、初さんが外から声を掛けると、窓をがらりと開けて、飯場頭はんばがしらが顔を出した。米利安めりやす襯衣シャツの上へどてらを着たままである。
けえったか。御苦労だった。まああっちへ行って休みねえ」
と云うが早いか初さんは消えてなくなった。あとは二人になる。親方は窓の中から、自分は表に立ったまま、談話はなしをした。
「どうです」
「大概見て来ました」
「どこまで降りました」
「八番坑まで降りました」
「八番坑まで。そりゃ大変だ。随分ひどかったでしょう。それで……」
と心持首を前の方へ出した。
「それで――やっぱりいるつもりです」
「やっぱり」
と繰り返したなり、飯場頭はじっと自分の顔を見ていた。自分も黙って立っていた。二階からは依然として首が出ている。おまけに二つばかりえた。この顔を見ると、いやで厭でたまらない。飯場へ帰ってから、この顔に取り巻かれる事を思い出すと、ぞっとする。それでもいる気である。どんな辛抱をしてもいる気である。しかし「やっぱりいるつもりです」と断然答えて置いて、二階の顔を不意に見上げた時には、さすがに情なかった。こんな奴といっしょに置いてくれと、手を合せて拝まなければ始末がつかないようになり下がったのかと思うと、身体からだも魂も塩をけた海鼠なまこのようにたわいなくなった。その時飯場頭はようやく口をいた。奇麗きれいさっぱりと利いた。
「じゃ置く事にしよう。だが規則だから、医者に一遍見て貰ってね。健康の証明書を持って来なくっちゃいけない。――今日と――今日は、もう遅いから、明日あしたの朝、行って見て貰ったらよかろう。――診察場かい。診察場はこれから南の方だ。上がって来る時、見えたろう。あの青いペンキ塗りのうちだ。じゃ今日は疲れたろうから、飯場へ帰ってゆっくり御休み」
と云って窓をてた。窓を閉てる前に自分はちょっと頭を下げて、飯場へ引返した。ゆっくり御休と云ってくれた飯場頭はんばがしらの親切はありがたいが、緩くり寝られるくらいなら、こんなに苦しみはしない。起きていれば獰猛組どうもうぐみ、寝れば南京虫ナンキンむしに責められるばかりだ。たまたま飯のふたを取れば咽喉のどへ通らない壁土が出て来る。――しかしいる。いるときめた以上は、どうしてもいて見せる。少くとも安さんが生きてるうちはいる。シキの人間がみんな南京虫になっても、安さんさえ生きて働いてるうちは、自分も生きて働く考えである。こう考えながら半丁ほどの路を降りて飯場はんばへ帰って、二階へ上がった。上がると案のじょう大勢囲炉裏いろりそばに待ち構えている。自分はくさくさしたが、できるだけ何喰わぬ顔をして、邪魔にならないような所へ坐った。すると始まった。皮肉だか、冷評だか、罵詈ばりだか、滑稽こっけいだか、のべつに始まった。
 一々覚えている。生涯しょうがい忘れられないほどに、自分の柔らかい頭を刺激したから、よく覚えている。しかし一々繰返す必要はない。まず大体昨日きのうと同じ事と思えば好い。自分は急に安さんにいたくなった。例の夕食ゆうめしを我慢して二杯食って、みんなの眼につかないようにそっと飯場を抜け出した。
 山中組はジャンボーの通った石垣の間を抜けて、だらだら坂の降りぎわを、右へのぼるとはすに頭の上にかぶさっている大きなえんじゅの奥にある。夕暮の門口かどぐちのぞいたら、一人の掘子ほりこがカンテラの筒服つつっぽうの掃除をしていた。中は存外静かである。
「安さんは、もうお帰りになりましたか」
叮嚀ていねいに聞くと、掘子は顔を上げてちょいと自分を見たまま、奥を向いて、
「おい、安さん、誰か尋ねて来たよ」
と呼び出しにかかるや否や、安さんは待ってたと云わんばかりに足音をさせて出て来た。
「やあ来たな。さああがれ」
 見ると安さんは唐桟とうざんの着物に豆絞まめしぼりにかの三尺を締めて立っている。まるで東京の馬丁べっとうのような服装なりである。これには少し驚いた。安さんも自分の様子をながめて首をかしげて、
「なるほど東京を走ったまんまの服装なりだね。おれも昔はそう云う着物を着たこともあったっけ。今じゃこれだ」
両袖りょうそでゆきを引っ張って見せる。
「何と見える。車引かな」
と云うから、自分は遠慮してにやにや笑っていた。安さんは、
「ハハハハ根性こんじょうはこれよりまだ堕落しているんだ。驚いちゃいけない」
 自分は何と答えていいか分らないから、やはりにやにや笑って立っていた。この時分は手持無沙汰てもちぶさたでさえあればにやにやして済ましたもんだ。そこへ行くと安さんは自分よりはる世馴よなれている。このていを見て、
「さっきから来るだろうと思って待っていた。さああがれ」
と向うから始末をつけてくれた。この人は世馴れた知識を応用して、世馴れない人をたすける方のがわだと感心した。こいつを逆にして馬鹿にされつけていたから特別に感心したんだろう。そこで安さんの云う通り長屋へ上って見た。部屋はやっぱり広いが、自分の泊った所ほどでもない。電気灯はいている。囲炉裏いろりもある。ただ人数にんずが少い、しめて五六人しかいない。しかも、それが向うにかたまってるから、こっちはたった二人である。そこでまた話を始めた。
「いつ帰る」
「帰らない事にしました」
 安さんは馬鹿だなあと云わないばかりの顔をしてあきれている。
「あなたのおっしゃった事は、よく分っています。しかし僕だって、酔興すいきょうにここまで来た訳じゃないんですから、帰るったって帰る所はありません」
「じゃやっぱり世の中へ顔が出せないような事でもしたのか」
と安さんは鋭い口調で聞いた。何だか向うの方がぎょっとしたらしい。
「そうでもないんですが――世の中へ顔が出したくないんです」
と答えると、自分の態度と、自分の顔つきと、自分の語勢を注意していた安さんが急にき出した。
「冗談云っちゃいけねえ。そんな酔狂があるもんか。世の中へ顔が出したくないた何の事だ。贅沢ぜいたくじゃねえか。そんな身分に一日でも好いからなって見てえくらいだ」
「代れれば代って上げたいと思います」
至極しごく真面目に云うと、安さんは、また噴き出した。
「どうも手のつけようがないね。考えて御覧な。世の中へ顔が出したくないものがさ、このシキへ顔が出したくなれるかい」
「ちっとも出したくはありません。仕方がないから――仕方がないんです。昨夕ゆうべも今日も散々苛責いじめられました」
 安さんはまた笑い出した。
ふてえ野郎だ。誰が苛責た。年の若いものつらまえて。よしよしおれが今にかたきを打ってやるから。その代り帰るんだぜ」
 自分はこの時大変心丈夫になった。なおなおとどまる気になった。あんな獰猛どうもうもこっちさえ強くなりゃちっとも恐ろしかないんだ、十把一束じっぱひとからげに罵倒するくらいの勇気がだんだん出てくるんだと思った。そこで安さんに敵は取ってくれないでも好いから、どうか帰さずに当分置いて貰えまいかと頼んだ。安さんは、あまりの馬鹿らしさに、気の毒そうな顔をして、あきれ返っていたが、
「それじゃ、いるさ。――何も頼むの頼まないのって、そりゃ君の勝手だあね。相談するがものはないや」
「でも、あなたが承知して下さらないと、いにくいですから」
「せっかくそう云うんなら、当分にするがいい。長くいちゃいけない」
 自分はつつしんで安さんのむねりょうした。実際自分もその考えでいたんだから、これはけっして御交際おつきあい挨拶あいさつではなかった。それからいろいろな話をしたがシキの中の述懐と大した変りはなかった。ただ安さんのあにさんが高等官になって長崎にいると云う事を聞いて、大いに感動した。安さんの身になっても、兄さんの身になっても、定めし苦しいだろうと思うにつけ、自分と自分の親と結びつけて考え出したら何となく悲しくなった。帰る時に安さんが出口まで送って来て、相談でもあるならいつでも来るが好いと云ってくれた。
 表へ出ると、いつのにか曇った空が晴れて、細い月が出ている。路は存外明るい、その代り大変寒い。あわせを通して、襯衣シャツを通して、蒲鉾形かまぼこなりの月の光が肌までみ込んで来るようだ。両袖を胸の前へ合せて、その中へ鼻から下を突込んで肩をできるだけそびやかして歩行あるき出した。身体からだはいじけているが腹の中はさっきよりだいぶん豊かになった。何の当分のうちだ。れればそう苦にする事はない。何しろ一万余人もかたまって、毎日毎日いっしょに働いて、いっしょに飯を食って、いっしょに寝ているんだから、自分だって七日も練習すれば、一人前いちにんまえに堕落する事はできるに違ない。――この時自分の頭の中には、堕落の二字がこの通りに出て来た。しかしただこの場合に都合のいい文字としていて出たまでで、堕落の内容を明かに代表していなかったから、別に恐ろしいとも思わなかった。それで、比較的元気づいて飯場はんばへ帰って来た。五六間手前まで来ると、何だかわいわい云っている。外はさびしい月である。自分はうちの騒ぎを聞いて、淋しい月を見上げて、しばらく立っていた。そうしたら、どうも這入はいるのがいやになった。月を浴びて外に立っているのも、つらくなった。安さんの所へ行って泊めてもらいたくなった。一歩引き返して見たが、あんまりだと気を取り直して、のそのそ長屋へ這入った。横手に広いがあって、上り口からは障子しょうじで立て切ってある。電気灯が頭の上にあるから影は一つも差さないが、騒ぎはまさにこのうちから出る。自分は下駄げたを脱いで、足音のしないように、障子のそばを通って、二階へ上がった。段々を登り切って、大きな部屋を見渡した時、ほっと一息ついた。部屋には誰もいない。
 ただきんさんが平たく煎餅せんべいのようになって寝ている。それから例の帆木綿ほもめんにくるまって、ぶら下がってる男もいる。しかし両方ともきわめて静かだ。いてもいないと同じく、部屋は漠然ばくぜんとしてただ広いものだ。自分は部屋の真中まで来て立ちながら考えた。床を敷いて寝たものだろうか、ただしは着のみ着のままで、ごろりと横になるか、または昨夕ゆうべの通り柱へもたれて夜を明そうか。ごろ寝は寒い、柱へかかるのは苦しい。どうかして布団ふとんを敷きたい。ことによれば今日は疲れ果てているから、南京虫ナンキンむしがいても寝られるかも知れない。それに蒲団ふとん奇麗きれいなのをったらよかろう。ことさら日によって、南京虫の数が違わないとも限るまい。といろいろな理窟りくつをつけて布団を出して、そうっともぐり込んだ。
 この晩の、経験を記憶のまま、ここに書きつけては、自分がお話しにならない馬鹿だと吹聴ふいちょうする事になるばかりで、ほかに何の利益も興味もないからやめる。一口ひとくちに云うと、昨夜ゆうべと同じような苦しみを、昨夜以上に受けて、寝るが早いか、すぐ飛び起きちまった。起きた後で、あれほど南京虫にされながら、なぜ性懲しょうこりもなくまた布団ふとんを引っ張り出して寝たもんだろうと後悔した。考えると、全くの自業自得じごうじとくで、しかも常識のあるものなら誰でもけられる、また避けなければならない自業自得だから、我れながら浅ましい馬鹿だと、つくづく自分がいやになって、布団の上へ胡坐あぐらをかいたまま、考え込んでいると、また猛烈にちくりと螫された。しりもも膝頭ひざがしらが一時に飛び上がった。自分は五位鷺ごいさぎのように布団の上に立った。そうして、四囲あたりを見廻した。そうして泣き出した。仕方がないから、こん兵児帯へこおびを解いて、四つに折って、裸の身体中所嫌わず、ぴしゃぴしゃたたき始めた。それから着物を着た。そうして昨夜の柱の所へ行った。柱にりかかった。うちが恋しくなった。父よりも母よりも、艶子さんよりも澄江さんよりも、家の六畳の間が恋しくなった。戸棚に這入はいってる更紗さらさの布団と、黒天鵞絨くろびろうど半襟はんえりの掛かった中形の掻捲かいまきが恋しくなった。三十分でも好いから、あの布団を敷いて、あの掻捲をけて、あったかにして楽々寝て見たい、今頃は誰があの部屋へ寝ているだろうか。それとも自分がいなくなってからのちは、机をえたまんま、がらどうにしてあるかしらん。そうすると、あの布団も掻捲も、畳んだなり戸棚にしまってあるに違ない。もったいないもんだ。父も母も澄江さんも艶子さんも南京虫に食われないで仕合せだ。今頃は熟睡しているだろう。うらやましい。――それとも寝られないで、のつそつしているかしらん。父は寝られないと疳癪かんしゃくを起して、夜中に灰吹をぽんぽんたたくのが癖だ。煙草たばこむんだと云うが、煙草は仮託かこつけで、実は、腹立紛れに敲きつけるんじゃないかと思う。今頃はしきりに敲いてるかも知れない。苦々にがにがしいせがれだと思って敲いてるか、どうなったろうと心配の余り眼を覚まして敲いてるか。どっちにしても気の毒だ。しかしこっちじゃそれほどにも思っていないから、先方さきでもそう苦にしちゃいまい。母は寝られないと手水ちょうずに起きる。中庭の小窓を明けて、手を洗って、さんをおろすのを忘れて、翌朝あくるあさよく父に叱られている。昨夜も今夜もきっと叱られるに違ない。澄江さんはぐうぐう寝ている――どうしても寝ている。自分のいる前では、丸くなったり、四角になったりいろいろな芸をして、人を釣ってるが、いなくなれば、すぐに忘れて、平生へいぜいの通り御膳ごぜんをたべて、よく寝る女だから、是非に及ばない。あんな女は、今まで見た新聞小説にはけっして出て来ないから、始めは不思議に思ったが、ちゃんと証拠があるんだから確かである。こう云う女に恋着しなければならないのは、よッぽどの因果いんがだ。随分憎らしいと思うが、憎らしいと思いながらもやッぱりれ込んでいるらしい。不都合な事だ。今でも、あの色の白い顔が眼前めさきにちらちらする。しからない顔だ。艶子さんは起きてる。そうして泣いてるだろう。はなはだ気の毒だ。しかしこっちで惚れたおぼえもなければ、また惚れられるような悪戯いたずらをした事がないんだから、いくら起きていても、泣いてくれても仕方がない。気の毒がる事は、いくらでも気の毒がるが仕方がない。構わない事にする。――そこで最後には、ほかの事はどうともするから、ただ安々と楽寝がさせて貰いたい。不断の白い飯も虫唾むしずが走るように食いたいが、それよりか南京虫ナンキンむしのいないとこ這入はいりたい。三十分でも好いからぐっすり寝て見たい。そのあとでなら腹でも切る。……
 こう考えているとまた夜が明けた。考えている途中でいつか寝たものと見えて、眼がめた時は、何にも考えていなかった。それからあとは、のそのそ下へ降りて行って、顔を洗って、南京米ナンキンまいを食う。万事昨日きのうの通りだから、はぶいてしまう。九時の例刻を待ちかねて病院へ出掛ける。病院は一昨日おととい山を登って来る時に見た、青いペンキ塗の建物と聞いているから道もうちも間違えようがない。飯場はんばを出て二丁ばかり行くと、すぐ道端みちばたにある。木造ではあるがなかなか立派な建築で、広さもかなりだけに、獰猛組どうもうぐみとはまるで不釣合である。野蛮人が病気をするんでさえすでに不思議なくらいだのに、病気にかかったものを治療してやるための器械と薬品と医者と建物をそなえつけたんだから、世の中は妙だと云う感じがすぐに起る。まるで泥棒が金を出し合って、小学校を建てて子弟を通学させてるようなもんだ。文明と蒙昧もうまいの両極端がこのペンキ塗の青い家の中で出逢であって、一方が一方へ影響を及ぼすと、蒙昧がますますぴんぴん蒙昧になってくる。下手へたに食い違った結果が起るもんだ。と考えながら歩いて来ると、また鬼共が窓から首を出してながめている。せっかくの考えもこの気味のわるい顔を見上げるとたちまちくずれてしまう。あの顔のなかに安さんのようなのが、たった一つでもあれば、生き返るほど嬉しいだろうに、どれもこれも申し合せたように獰猛の極致を尽している。あれじゃ、どうしたって病院の必要があるはずがないとまで思った。
 天気だけは好都合にすっかり晴れた。赤土をいたような山の壁へ日が当る。昨日、一昨日の雨を吸込んだ土は、東から差す日を受けて、まだ乾かない。その上照る日をいくらでも吸い込んで行く。景色けしきは晴れがましいうちに湿しっとりと調子づいて、長屋と長屋の間から、下の方の山を見ると、真蒼まっさおな色がみ割れそうに濃く重なっている。風は全く落ちた。昨夕ゆうべと今朝とではほとんど十五度以上も違うようである。道傍みちばたに、たった一つ蒲公英たんぽぽが咲いている。もったいないほど奇麗な色だ。これも獰猛とはまるで釣り合ない。
 病院へ着いた。和土たたきの廊下が地面とれ擦れに五六間続いている突き当りに、診察室と云う札がかかって、手前の右手に控所と書いてある。今云った一間幅の廊下を横切って、控所へ這入はいると、下はやはり和土で、ベンチが二脚ほど並べてある。小さい硝子窓ガラスまどには受附と楷書でりつけてある。自分はこの窓口へ行って、自分の姓名を書いた紙片かみきれを出すと、窓の中に腰を掛けていた二十二三の若い男が、その紙片を受取って、ありもしないまみえへ八の字を寄せて、むずかしそうにとくとながめた上、
「こりゃ御前か」
と、さも横風おうふうに云った。あまり好い心持ではなかった。何の必要があって、こう自分を軽蔑けいべつするんだか不平にえない。それで単に、
「ええ」
と出来るだけ愛嬌あいきょうのない返事をした。受附は、それじゃ、まだ挨拶あいさつが足りないと云わんばかりに、しばらくは自分をにらめていたが、こっちもそれっ切り口を結んで立っていたもんだから、
「少し待っていろ」
と、ぴしゃりと硝子戸ガラスどを締めて出て行った。草履ぞうりの音がする。あんなにばたばた云わせなくっても好さそうなもんだと思った。
 自分はベンチへ腰を掛けた。受附はなかなか帰って来ない。ぼんやりしていると、眼の前にジャンボーが出て来た。きんさんがよっしょいよっしょいとかつがれて来るところが見える。あれでも病院が必要なのかと思った。何のために薬を盛って、患者を施療せりょうするのか、ほとんど意義をなさない。こんな体裁ていさいのいい偽善はない。病人はいじめるだけいじめる。ジャンボーはやしたいだけ囃す。その代り医者にかけてやると云うのか。鄭重ていちょうの至りである。
「おいあっちへ廻れ」
と突然受附の声がした。見ると受附は硝子窓の中に威丈高いたけだかに突立って、自分を眼下に睥睨へいげいしている。自分は控所を出た。右へ折れて、廊下伝いに診察場へ上がったら、薬のにおいがぷんとした。この臭をぐとひとしく、自分も、もうやがて死ぬんだなと思い出した。死んでここの土になったら不思議なものだ。こう云うのを運命というんだろう。運命の二字は昔から知ってたが、ただ字を知ってるだけで意味は分らなかった。意味は分っても、納得なっとくがむずかしかった。西洋人がたけのこを想像するように定義だけを心得て満足していた。けれども人間の一大事たる死と云う実際と、人間の獣類たる坑夫の住んでいるシキとを結びつけて、二三日前まで不足なく生い立った坊っちゃんを突然宙に釣るして、この二つの間に置いたとすると、坊っちゃんは始めてなるほどと首肯する。運命は不可思議な魔力で可憐な青年をもてあそぶもんだと云う事が分る。すると今までただの山であったものが、ただの山でなくなる。ただの土であったものがただの土でなくなる。青いばかりと思った空が、青いだけでは済まなくなる。この病院の、この診察場の、この薬品の、この臭いまでが夢のような不思議になる。元来この椅子いすに腰を掛けている本人からしてが、何物だかほとんど要領を得ない。本人以外の世界は明瞭めいりょうに見えるだけで、どんな意味のある世界かさっぱり見当けんとうがつかない。自分は、診察場と薬局とをかねたこの一室の椅子にって、敷物と、洋卓テエーブルと、薬瓶くすりびんと、窓と、窓の外の山とを見廻した。もっとも明瞭な視覚で見廻したが、すべてがただ一幅のと見えるだけで、そのほかには何物をも認める事ができなかった。
 そこへ戸を開けて、医者があらわれた。その顔を見ると、やっぱり坑夫の類型タイプである。黒のモーニングにしま洋袴ズボンを着て、えりの外へあごを突き出して、
「御前か、健康診断をして貰うのは」
と云った。この語勢には、馬に対しても、犬に対しても、是非腹のなかで云うべきほどの敬意がこもっていた。
「ええ」
と自分は椅子を離れた。
「職業は何だ」
「職業って別に何にもないんです」
「職業がない。じゃ、今まで何をして生きていたのか」
「ただ親の厄介やっかいになっていました」
「親の厄介になっていた。親の厄介になって、ごろごろしていたのか」
「まあ、そうです」
「じゃ、ごろつきだな」
 自分は答をしなかった。
「裸になれ」
 自分は裸になった。医者は聴診器で胸と背中をちょっとた上、いきなり自分の鼻をつまんだ。
「息をして見ろ」
 息が口から出る。医者は口の所へ手をあてがった。
今度こんだ口をふさぐんだ」
 医者は鼻の下へ手をあてた。
「どうでしょう。坑夫になれますか」
「駄目だ」
「どこか悪いですか」
「今書いてやる」
 医者は四角な紙片かみきれへ、何か書いてほうり出すように自分に渡した。見ると気管支炎とある。
 気管支炎と云えば肺病の下地したじである。肺病になれば助かりようがない。なるほどさっき薬のにおいいで死ぬんだなと虫が知らせたのも無理はない。今度はいよいよ死ぬ事になりそうだ。これから先二三週間もしたら、きんさんのようによっしょいよっしょいでジャンボーを見せられて、そのあげくには自分がとうとうジャンボーになって、それから思う存分はやし立てられて、たたき立てられて、――もっとも新参だから囃してくれるものも、敲いてくれるものも、ないかも知れないが――とどの詰りは、――どうなる事か自分にも分らない。それは分らなくってもよろしい。生きて動いている今ですら分らない。ただ世界がのべつ、のっぺらぽうに続いているうちに、あざやかな色が幾通りも並んでるばかりである。坑夫は世の中で、もっともきたないものと感じていたが、かように万物を色の変化と見ると、穢ないも穢なくないもある段じゃない。どうでも構わないから、どうとも勝手にするがいい、自分が懐手ふところでをしていたら運命が何とか始末をつけてくれるだろう。死んでもいい、生きてもいい。華厳けごんたきなどへ行くのは面倒になった。東京へ帰る? 何の必要があって帰る。どうせ二三度せきをせくうちの命だ。ここまで運命が吹きつけてくれたもんだから、運命に吹き払われるまでは、ここにいるのが、一番骨が折れなくって、一番便利で、一番順当な訳だ。ここにいて、ただ堕落の修業さえすれば、死ぬまでは持てるだろう。肺病患者にほかの修業はむずかしいかも知れないが、堕落の修業なら――ふと往きに眼についた蒲公英たんぽぽ出逢であった。さっきはもったいないほど美しい色だと思ったが、今見ると何ともない。なぜこれが美しかったんだろうと、しばらく立ち留まって、見ていたが、やっぱり美しくない。それからまたあるき出した。だらだら坂を登ると、自然と顔が仰向あおむきになる。すると例の通り長屋から、坑夫が頬杖ほおづえを突いて、自分を見下みおろしている。さっきまではあれほどいやに見えた顔がまるで土細工つちざいくの人形の首のように思われる。みにくくも、こわくも、憎らしくもない。ただの顔である。日本一の美人の顔がただの顔であるごとく、坑夫の顔もただの顔である。そう云う自分も骨と肉で出来たただの人間である。意味も何もない。
 自分はこう云う状態で、無人むにんさかいを行くような心持で、親方のうちまでやって来た。案内を頼むと、うちから十五六の娘が、がらりと障子しょうじをあけて出た。こう云う娘がこんな所にいようはずがないんだから、平生へいぜいならはっと驚く訳だが、この時はまるで何の感じもなかった。ただ器械のように挨拶あいさつをすると、娘は片手を障子へ掛けたまま、奥を振り向いて、
御父おとっさん。御客」
と云った。自分はこの時、これが飯場頭はんばがしらの娘だなと合点がてんしたが、ただ合点したまでで、娘がまだそこに立っているのに、娘の事は忘れてしまった。ところへ親方が出て来た。
「どうしたい」
「行って来ました」
「健康診断を貰って来たかい。どれ」
 自分は右の手に握っていた診断書を、つい忘れて、おやどこへやったろうかと、始めて気がついた。
「持ってるじゃないか」
と親方が云う。なるほど持っていたから、しわして親方に渡した。
「気管支炎。病気じゃないか」
「ええ駄目です」
「そりゃ困ったな。どうするい」
「やっぱり置いて下さい」
「そいつあ、無理じゃないか」
「ですが、もう帰れないんだから、どうか置いて下さい。小使でも、掃除番でもいいですから。何でもしますから」
「何でもするったって、病気じゃ仕方がないじゃないか。困ったな。しかしせっかくだから、まあ考えてみよう。明日までには大概様子が分るだろうからまた来て見るがいい」
 自分は石のようになって、飯場はんばへ帰って来た。
 その晩は平気で囲炉裏いろりそば胡坐あぐらをかいていた。坑夫共が何と云っても相手にしなかった。相手にする料簡りょうけんも出なかった。いくら騒いでも、愚弄からかっても、よしんば踏んだりたりしても、彼らは自分と共に一枚の板に彫りつけられた一団の像のように思われた。寝るときは布団ふとんは敷かなかった。やはり囲炉裏のそばに胡坐をかいていた。みんな寝着いてから、自分もその場へ仮寝うたたねをした。囲炉裏へ炭をぐものがないので、火のがだんだん弱くなって、寒さがしだいに増して来たら、眼が覚めた。えりの所がぞくぞくする。それから起きて表へ出て空を見たら、星がいっぱいあった。あの星は何しに、あんなに光ってるのだろうと思って、また内へ這入はいった。きんさんは相変らず平たくなって寝ている。金さんはいつジャンボーになるんだろう。自分と金さんとどっちが早く死ぬだろう。安さんは六年このシキに這入ってると聞いたが、この先何年あらがねたたくだろう。やっぱりしまいには金さんのように平たくなって、飯場の片隅かたすみに寝るんだろう。そうして死ぬだろう。――自分は火のない囲炉裏のはたに坐って、夜明まで考えつづけていた。その考えはあとから、あとから、仕切しきりなしに出て来たが、いずれも干枯ひからびていた。涙も、なさけも、色ももなかった。こわい事も、恐ろしい事も、未練も、心残りもなかった。
 夜が明けてから例のごとく飯を済まして、親方の所へ行った。親方は元気のいい声をして、
「来たか、ちょうど好い口が出来た。実はあれからいろいろ探したがどうも思わしいところがないんでね、――少し困ったんだが。とうとううまい口を見附めっけた。飯場の帳附ちょうつけだがね。こりゃ無ければ、なくっても済む。現に今までは婆さんがやってたくらいだが、せっかくの御頼みだから。どうだねそれならどうか、おれの方で周旋ができようと思うが」
「はあありがたいです。何でもやります。帳附と云うと、どんな事をするんですか」
「なあに訳はない。ただ帳面をつけるだけさ。飯場にああ多勢いる奴が、やや草鞋わらじだ、やや豆だ、ヒジキだって、毎日いろいろなものを買うからね。そいつを一々帳面へ書き込んどいて貰やあ好いんだ。なに品物は婆さんが渡すから、ただ誰が何をいくら取ったと云う事が分るようにして置いてくれればそれで結構だ。そうするとこっちでその帳面を見て勘定日に差し引いて給金を渡すようにする。――なに力業ちからわざじゃないから、誰でもできる仕事だが、知っての通りみんな無筆の寄合よりあいだからね。君がやってくれるとこっちも大変便利だが、どうだい帳附は」
「結構です、やりましょう」
「給金は少くって、まことに御気の毒だ。月に四円だが。――食料を別にして」
「それでたくさんです」
と答えた。しかし別段に嬉しいとも思わなかった。ようやく安心したとまではもとより行かなかった。自分の鉱山における地位はこれでやっときまった。
 翌日あくるひから自分は台所の片隅に陣取って、かたのごとく帳附ちょうつけを始めた。すると今まであのくらい人を軽蔑けいべつしていた坑夫の態度ががらりと変って、かえって向うから御世辞を取るようになった。自分もさっそく堕落の稽古けいこを始めた。南京米ナンキンまいも食った。南京虫ナンキンむしにも食われた。町からは毎日毎日ポンびき椋鳥むくどりを引張って来る。子供も毎日連れられてくる。自分は四円の月給のうちで、菓子を買っては子供にやった。しかしそののち東京へ帰ろうと思ってからは断然やめにした。自分はこの帳附を五箇月間無事に勤めた。そうして東京へ帰った。――自分が坑夫についての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。

 

 

底本:「夏目漱石全集4」ちくま文庫、筑摩書房 
   1988(昭和63)年1月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年4月13日公開
2004年2月26日修正
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