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~紙の削減~ 著作権切れの名著

徳冨蘆花『寄生木』 第20章 (5) 帰校

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(5) 帰校

 

 良平は帰校した。約ひと月の転地療養に、病やや癒えて血色も治り、肉まさり、骨も太くなった。間に髪を入れず、翌日から秋期測図並みに戦術実施ため栃木県から茨城県下に出張した。700の生徒は上野停車場(ステーション)に集められた。多くが弁慶の七つ道具みたような重々しい服装して、埃を浴びて行進する時、軍医の診断によりて猶々(なおなお)病気の心配があるというので、良平はひとり官費の車を走らしたのである。これも病の一徳かもしれぬ。

 

 演習地にいっても、良平は生命(いのち)あっての物種、畑あっての芋の種と、学問よりも成績より病気の治療に専ら注意した。軍医の注意があったのか、教官も非常な規則以外の自由を与えてくれた。今は少佐、その時は大尉の工藤工兵教官、都築砲兵教官、良平は七尺去って師の影を踏まぬのみならず、胸底深くこの両教官の名は銘刻して忘れぬ。雨の日はもちろん、曇天の朝でも、

「候補生は体が弱いから、天候も悪いし、出なくてもいい。何より体を大切に ⵈⵈ 決して無理はするな。」

と言ってくれた。雨天、風日、あるいは日本晴れの日にも、気が進まねば良平は演習に出なかった。教官はこれを黙許した。

 

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加波山

 演習に出ずしてひとり宿舎に閉じこもった良平は、窓外遥かに加波山(かばさん)に対して徒然(つれづれ)のあまり例の過去の追懐(ついかい)にふけって、しきりにいたずら書きの筆を走らした。時にはいたずら書きにも飽き、空想にも()いて、皆の帰りが待ち遠しい日もあった。夕方になると皆が日に焼けてどやどや帰ってくる。夜になっても獨をきってせっせと夜業する。素朴な田舎人がお茶菓子だといって、ふかし芋を山のごとく持ってくる。多くは芋を顧みずして、その日の温習 翌日の予習に余念がない。いち早く手をつけるのは無為の良平であった。良平は無為而食(むいにしてくらう)の評を受けるうしろめたさに、攻勢に転じてまず高吟した。

 

   嘉平太が藷を貪る夜寒かな

 

 松原嘉平太君は佐賀の人、今は鹿児島歩兵四十五連帯の大隊副官である。朴訥の嘉平太君はむきになって、

「貴様がひとりで貪ったくせに! 吾輩や一番ちいさいの、ほんにや二個ほか食わん。」と食ってかかる。一同が腹を抱えて笑う。良平はまた高吟した。

 

   濱善の聲に驚く鼠かな

 

 敦賀連帯の濱田善五郎君、顔色赤黒く、鼻と声のすぐれて高いのをもって有名である。皆がまたどっと笑う。

 「この篠原の野郎奴」と濱田君が恨めしそうに睨む。濱田君は後出征して旅順の盤龍山に負傷し、久しく大連の病院にいたが、勇敢なる彼は傷まだ癒えないに再び戦線に出て、ついに戦場の露と消えた。

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盤龍山

 陰暦中秋の名月は栃木で見た。候補生が大勢寄って、詩を吟ずる、歌う、甘酒を飲む。大阪連帯の嶋田というのがいた。「おい、嶋田、嶋田。またも逃げたか八連隊」と皆がからかう。竹割ったような洒落の人は、吾不関焉(かんぜえん)と眼をつぶって、

「春ぅ⸺雨ぇに⸺、イヤ、ッ、チン、おや ⵈⵈ 」

微吟(びぎん)していた。嶋田君は南山に華々しい戦死を遂げた。

 

 思えば茫として一場の夢である。士官学校における良平は、ただ口が悪いを(きず)にして面白い男、無邪気な男、呑気な男として知られていた。胸の中を知らぬ同窓は皆かく言った。

 

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思川

 良平はあくまで空想の子であった。思川に架橋点視察を教官に命じられては、肝心かなめの士官生徒の本分はそっちのけにして、惠山の岬といい、思川といい、小説の題目にふさわしい名だと思った。

 ある日敵の防御に、砲兵陣地を選定せよとの命があった。いづれも地図を手にして、現地偵察に出かけた。良平は地図の上で然るべき陣地を選定しておいて、とある民家に憩い、霜に飽いて紅の色美しい熟柿を買って、散々に頬張った。時間が来て、生徒は定められた地点に集合した。まず指名された一人が自己の選定した陣地に隊伍を導き、選定の理由を述べた。教官はこれに向かって逐一講評を下した。次に指名は南

無三、良平に落ちた。

「篠原候補生はどこに砲兵陣地を選定したか。」

「は、はい。これから東北方400mに三叉路があります。」

「うむ。」

「その三叉路のすぐ北方約200mの畑地、畑地に選定しました。」

「候補生は隊の先頭に立って案内せッ。」

「はい。」

 良平はびくびくもので先頭に立った。図面通りなるほど東北400mに三叉路があった。それから北に進むこと200m。さあ大変! 桑田変じて海となって、古い図上の畑地はいつの間にか田になり、金波穣々(こわ)秋風に波うっている。

「どこか、陣地は!」

「はっ、はい。」

前後左右を眺めても みな田になって、一小畑地もない。ままよ、「はい、ここであります」と田の中を指した。

「こんな低い中に砲車を引っぱり込んで、どうするか。射撃が出来るか。地盤はかく泥濘、段列はどこに置くんだ?」

 

 流石の詭弁家も一言もなかった。下野(しもつけ)の柿を食って恥をかいた。野州の柿は毒だ毒だ、と頭をかいた。

 

 また天海山の山砲兵の進入路を尋ねる問題があった。

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天海山 ( あまかいさん )

 陣地は古城址に布置(ふち)するがいいとのことで、良平は荒れた城址を其處此處(そちこち)と歩いた。草ぼうぼうとしてキリギリスがしきりに鳴いている。天海山は松山で、小鳥が多く、頂きからは関八州の半ばを一望のうちにおさめる。例の空想家は空想した、他日功を国家に建てた後、老骨を養い余命を楽しむはこの天海山のような所が良い。手帳に天海山と書いた。

 

 数週にわたる清秋の野外演習は、ことに特別の自由を与えられた良平にとって、自然の療法となった。帰校する頃は肉もつき、肥満したと人にも言われた。

 

 帰校してまたやがて相州浦賀から観音崎に、いわゆる東京湾砲台見学に赴いた。

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東京湾砲台 ( 観音崎第三砲台 )

 良平はすこぶる健康を快復した。しかしまだ病院の厄介になっていた。病友 樫本騎兵の巌君はすなわち総常総監である。一夕友によって総監の診察を請うたら、まず東京衛戍(えいじゅ)病院長 白井軍医正に診断を受けよとのことである。白井軍医正は()く言った。肺がまだよくない、人は生命(いのち)が第一だ、ともかくも試験を受けて、試験が済んだらどこか暖かい所に転地するがよい。

 

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東京衛戍病院

  病気がちの一年はいつの間にか過ぎた。卒業試験が来た。良平は平気に試験に出た。結果が発表されたら、414名の歩兵科中319番であった。幼年学校卒業の成績からみればまだましである。士官学校の前半期につれなかった郷里の父兄から情を尽くした祝文が来た。祝文とともに軍服料として金100圓送ってきた。智力金力とは皆のこと、今日は金力で智力を用ふべき時世だ、くれぐれも金力を軽んぜな、と言い添えてあった。

 

 軍服の注文やら、同窓の送別会やら、宮城拝観やら、名残の見物やら、告別やら、忙しい時となった。